手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

悔いることは多い・・・つづき

2020-03-03 19:24:19 | 身辺雑記

 美唄東高校で15年務めた。そろそろ転勤しなくちゃと思い希望をだした。転勤ができるような話が伝わってきた前前年に札幌へ転勤ができなくても最後は札幌にすると考えて、手稲の現在地に私が勝手に大まかな設計をし、家内の故郷で知り合いだった大工の工務店に注文をして現在の住まいを建てた。   
 当時は現在の番地には五軒建つていましたが、泥炭地、スコップ一杯掘ると水ガ沸きだしてくるような土地でした。土台にコンクリトーのパイルを打たなければならないと思ったのですが大工が木は水に浸かっていると腐ることがないという、その言葉に乗っかってそのまま木の杭を打ってもらった。3年目に下水工事があり、道路や下水道がきれいに整備された。すると泥炭地の水が抜けて土地が乾燥した。水が抜けて、地盤沈下が起こり、杭の頭が腐り家が傾いてきた。それで10年目くらいに土台上げをしなければならなかった。
 
 家を建てているので、札幌に行けるといいのだがと思っていた。そのうちに札幌らしいといううわさが聞こえてきた。その時,新設の西陵高校じゃないかと予感した。新設3年目の一学年10クラスのマンモス高校です。まだ校舎は建築中で札幌北高校のグランドの隅にプレハブ建ての状態でした。   
 辞令は予想通り西陵高校でした。この転勤1年目がひどいひどい1年になりました。
 
 3月辞令が出てまず挨拶と思って出かけました。案内されて入った職員室で最初のショックを受けました。20学級60名以上の先生たちが座っている。その端の方のソフアへ案内された。職員室の中から話声が聞こえてこないのです。ストーブの周りに屯する先生もいないのです。こんな職員室の様子見たことがありません。
 更に応接してくれた教頭先生から、校務分掌は庶務部長ですと告げられた。すぐわかりましたがこれは教頭の次の役職なのです。30学級の新設校のリーダーになれというものなのです。いわば第二教頭なのです。そして、入学式の手筈から作らなければならなくなっているのです。悪いことに前任者は前年の行事等のファイルを一切作ってないのです。いろいろな書類の山の中からそれらしいものを見つけ出してそれをひな型に作って教頭に提出校長の許可をもらわなければならないのです。当時PCはない、印刷は全部ガリバンなのです。私は、ガリ版の使い方もあまり上手でなく、新任挨拶をする前から仕事に終われ、帰宅するのが22時過ぎになることが当たり前みたいな生活になりました。この1年は教員生活38年の中で一番つらい一年でした。1年で庶務部長は首になりました。このざまだから、教頭になれなかったのはラッキーだったのです。
 
 2年目に与えられた分掌が、団体事務局長ということで、PTA、後援会、同窓会の世話でした。この職は私に、はまりでした。以後、とても楽しく過ごすことができました。div>
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