手稲文化協会に加入したのは平成3年だった。詩吟の教室もようやく体裁を整えることができたので、手稲文化協会に加入した。
当時まだ手稲区が独立していなくて、西区手稲だった。この時新しく手稲コミニティセンターが開設され、それまで公民館で開催されていた文化祭もコミニティセンターで開催されることになりました。本格的な舞台のある会場での文化祭で手稲区の独立までは賑わいを見せていました。
手稲区が独立しますと、区役所が出来、併設して手稲区民センターができました。手稲区が独立すると手稲の地区が細分化され、地区にはそれぞれ地区センターが開設されるようになった。そして、各地区ごとに地区センター祭りが開催されるようになりました。その流れの中で文化協会の文化祭はコミニテイセンタの文化祭と共催される形となったのです。この時、文化協会の事務局長はいましたが実質はコミニティセンター館長が仕切る状況だったのです。そして地理的にさかをのぼってな行かなければならないコミニティセンターでの文化祭にはお客がほとんど来なくなっていました。そんな状況は見ていましたが中身については判らないままでいました。文化祭には区長が来て甲斐かい挨拶をしますが、その時も文化協会文化祭といわず、コミセン文化祭といっていました。 そんな中、創立50周年記念を迎えることとなります。その前年に会計の役が回ってきました。初めて文化協会の執行部の姿を見ることになりました。50周年記念誌の編集を任され何とかやり遂げました。そして50周年が終わった翌年から事務局長を引き受けることになりました。会長もここで変わることになりました。二年ほど内部で仕事をしながら、文化協会が壊滅する危機感を強く感じました。そして私の頭の中は、文化祭の区民センター開催、新しい行事の立ち上げなどで一杯でした。
文化協会の現状に危機感を持っている方は多かったと思いますが、どうしてよいのかわからなかったのでしょう。
まず、手稲区長に文化協会の歴史を知ってもらい、存続発展させるために区民センターの使用料の減免を認めてもらう事が一番と考え、つてを使って区長に面会し、陳情して丁度有珠山の噴火災害のあった年でしたので、その災害義援金のチャリティ行事として「伝統芸能祭」を区の後援で開催することを認めていただきました。このチャリティ伝統芸能祭は大変好評でチャリティの収益は全額義援金に回しました。この実績をもとに翌年もチャリティ伝統芸能祭を開催することができ、5年目ころに行事の見直しをし、伝統芸能祭を舞踊の集いに改め、3月にカラオケフェスティバルをたちあげました。又,年忘れ演芸会も11月に開催するように改め、現在の文化協会の姿を作り上げたのでした。特につらかったのが、文化祭を区民センター゛開催するようになって3年目くらいに指定管理者制度が導入されることとなり、区民センターの使用量減免が受けられなくなるということが出てきました。当時の文化協会の財力では50年の歴史を持つ手稲文化祭も開催できなくなるということで,区とかなりきつい交渉を繰り返し、一年は指定管理者制度の施行を送らせることができました。そしてその次の年は、伝統芸能のチャリティ資金を使って将に文化協会独自の文化祭を開催したのでした。その後、地域振興課が中に入って手稲区民センター祭りと共催で費用は全額区民センター持ちということで決着し、現在に至っています。
現状に疑問を持たない現執行部には言いたいこともある。文化協会としての自負心を持っているのかと疑いたい。こんなことをしていたら、昔コミセンでやっていたのと変わらなくなる。文化協会は今や独自でも資金を調達して文化祭を開催することができるのだということを心してほしい。文化祭はまさに文化協会加盟団体に依って開催されることを目指して進まなければならなのです。区民センタ―のお手伝いををしているのではないのです。