瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

呼びかける働き

2005年12月27日 | 瞑想日記
◆復食
一日断食はいつもそうだが、夜10時以降ぐらいになると胃がすっきりしてとても気持ちがよくなる。食べたいという欲求もなくなる。この状態が、胃にも体ににもよい状態だということがよく分かる。そのままぐっすり寝て、今朝も空腹感は全くない。瞑想も調子よくできる。今朝の体重は、58.2キロで、9月下旬には、復食時の朝、57キロだったから、やはり1キロは太ったということだ。しかし70キロを超えていたころと比べればベストに近い。

昼になっても空腹感はないが、玄米のおかゆを食べると、そのあと俄然食欲が湧く。毎回そうなのだが、復食後の食欲に勝てない。今日は夕刻の瞑想のことを考えて少し控えようと思ったのだが‥‥。瞑想は、遅々たる歩みだが少しずつ充実度を増している。だからこそ、腹にあまりたまっていない状態で行いたいのだが。

ところで、座禅中のサティは確実に進歩しているが、日常生活の中ではあまり進歩がない。ラベリングを思い出すのは、歩行中ぐらいか。しかし、瞑想時のサティの充実とともに、その影響を徐々に日常生活にも及ぼしていければと思う。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』より
「頭脳がその制約、羨望、野心を自ら浄化した時にのみ、それは完全なものを理解することができる。愛がこの完全なものである。」11

「頭脳が自己中心化された存在を保護するために作り上げたあらゆるものを、死によって一掃することなくして、創造はありえない。」105

「観念や達成、目的に対する死がなければ、事実というものもない。観念や目標は事実からの逃避である。事実には時間も空間もない。」175

「強さは弱さの対極ではない。‥‥それは完全な〈独りであること〉から生まれ出るあの強さである。それはいっさいの争いと企てが完全に終熄した時に到来するあの力である。それはいっさいの思考と感覚が終熄し、ただ見ることだけが存在する時、そこにある。それは野心、貪欲、羨望がいかなる強制もなく終熄する時、そこにある。それら野心、貪欲、羨望は理解と共に消滅する。愛が死であり、死が生であるとき、あの強さが存在する。」210

クリシュナムルティのどの言葉も、強烈な「指し示し」になっている。これを自ら見よという呼びかけである。あるいは「呼び覚ます」働きである。私の中の何かが呼び覚まされるような気がするのである。とくに私は、最近「行為」において、その呼びかけを感じている。「観念や達成、目的に対する死」において行為すること。家事においても、仕事においても。それが夢における白鶴=僧の意味であった。
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七覚支3(In This Very Lifeより)

2005年12月27日 | In This Very Lifeより
1)念覚支(続き)
◆対象に直面すること
真のマインドフルネスは、対象に直接的に対面することによってのみ生じる。腹の膨らみ縮みを観察するとき、そのプロセスを全体的に見ることから始めるだろう。まずは腹の動きに直面し、それが出来るようになると、もっと綿密に見ることが出来るようになっているのを発見するだろう。腹の膨らみ縮みのなかに、緊張や圧力や熱感や冷感や運動といった様々な感覚を感じ取るようになるだろう。

繰り返し対象に直面し続けると、やがてその努力が実を結ぶ。マインドフルネスが活性化され、しっかりと対象を観察できるようになる。対象は、視野から消えたり忘れられたりしなくなる。一定時間マインドフルネスが持続されるようになると、汚染から自由な心の純粋性を見出すようになる。

マインドフルネスが持続的に活性化されると、心身の真の性質についての洞察が生まれる。自分のなかで起こっている様々な肉体的・心理的現象の個々の性格を理解するようになる。

☆これらの具体的な記述は、きわめて参考になる。また、マインドフルネスを持続していけば、このようになっていくのだろうと、大きな励みになる。
コメント (2)
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