瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

七覚支4(In This Very Lifeより)

2005年12月28日 | In This Very Lifeより
1)念覚支(続き)
◆四諦を理解する
修行者は、すべての肉体的・心理的現象が苦という性格を分け持つことを理解するであろう。つまり苦諦が理解される。すると他の三諦も理解される。なぜならマインドフルネス(気づき)があるとき、渇愛は生じない。渇愛は苦の根であり(集諦:じったい)、渇愛が捨てられれば苦も消える。こうして無知や他の煩悩が消えれば、苦の滅(滅諦)が実現される。第四の道諦を理解することは、八正道を発展させることにかかわる。八正道の発展は、気づきの一瞬一瞬に同時的に起こる。

それゆえ、気づきと知恵があれば四諦は、あるレベルにおいて理解される。マインドフルネスは、リアリティの本質への洞察を含む意識の一部であり、悟りの知の一部なのである。こうしてマインドフルネスは、悟り(覚)の一部(支)なのである。

◆気づきが気づきの原因である
気づきの最初の原因は、気づき以外の何ものでもない。もちろん、初心者の弱い気づきと、悟りに至るような高度の気づきとがある。実際においては、ある瞬間の気づきが次の気づきを生むことで、気づきが発展していくのだ。

☆マインドフルネス(気づき)が、いかに大切であるかを改めて思う。そしてマインドフルネスは、苦諦を洞察するところまで深められなければならないということである。

もうひとつ確認したいのは、ヴィパッサナー瞑想では、悟りへの道が段階的、発展的なものとして理解されているということである。これは、たとえばクリシュナムルティなどとは、根本的に異なる点だろう。
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