瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

無選択の自覚、開花

2005年12月29日 | 瞑想日記
◆「ゆる体操」から自発動功へ
今日は一日掃除などで少し疲れた。父は脳梗塞のリハビリで入院中だが、一月半ばには帰ってくる。そのため父の居住空間や玄関周辺を、父の障害に合わせて改造中である。この数日は、父の部屋の掃除と整理が中心だ。介護保険でベッドを借り、介護しやすい環境を整えなければならない。

今日は瞑想ができなかった。掃除中のサティは? うーん、完全に忘れている。明日は、しっかりやろう。最近、瞑想前は「ゆる体操」をみっちりやることが多い。しかし、かなり自発動功の要素が入っていて、自分のからだでいちばんほぐす必要のある部位の運動が自然に出る。回転のスワイショウも時々入る。気功の動きもよく出る。瞑想は日々充実を増している。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』より
「瞑想は目的への手段ではない。‥‥あらゆるシステム、方法は思考を時間に縛りつけるが、あらゆる思考と感情への無選択の自覚、すわなちその動機やメカニズムを理解し、思考と感情を開花させること、それが瞑想の始まりである。思考と感情が成育し、そして死滅する時、瞑想は時間を超えた運動となる。その運動の中に法悦がある。完全な空の中に愛があり、愛と共に破壊と創造がある。」298

ちょうど談話室(掲示板)で話題となっている「あるがまま」とも関係があるので取り上げて見た。瞑想が目的への手段となれば、何ものかを目指すことになる。それはすでに「あるがまま」の否定である。システムや方法は、時間の中で目的の達成を目指す。そこには「今、ここ」の否定がある。

それに対して「あらゆる思考と感情への無選択の自覚」こそが「あるがまま」を見ることでる。一方で、「あらゆる思考と感情への無選択の自覚」は、ヴィパッサナー瞑想の精神でもある。ここに瞑想の実に微妙な難しさが隠されている。ヴィパッサナー瞑想は、システム、方法と言えば言えるのだが、そのかなめは「無選択の自覚」である。

一方ここで、「思考と感情を開花させる」と言っているのも興味深い。 「開花、成育」は、つまり成長である。これも、談話室で少し触れたテーマと重なる。これについては、引用箇所の数ページ前に興味深い記述があるので、明日にでも触れたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする