瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

成長、開花、死滅

2005年12月30日 | 瞑想日記
◆『クリシュナムルティの神秘体験』より
「あらゆる思考と感情は、生きそして死ぬために開花がなくてはならない。あなたの中のあらゆるもの、大望、欲望、憎悪、喜び、情熱の開花。この開花の中にそれらの死と自由が存在する。何かが成長できるのはただ自由の内においてのみであり、抑圧、制御、規律の内においてではない。」295

実に興味深い。成長し、開花できるのは、自由の内においてのみであるという。つまり、「あるがまま」を受容するときにのみ、成長と開花がある。善悪の判断なく、「あるがまま」が認められ花開く自由が与えられたとき、それは終焉を向かえる。

「羨望の事実がその色、形、深み、特性をあらわにするのはただ自由の中においてのみである。もし抑圧されているならば、羨望はそれ自身を十分かつ自由に顕わしはしないだろう。羨望がそれ自身を完全に開示する時、他の事実、すわなち空虚、寂しさ、恐怖をあばきだしてこそ、羨望の終焉があり、そして各々の事実が、自由の中で、その全体性の中で花開くことを許される時、観察者と観察するものの間の争いが止む。検閲者はもはや存在せず、ただ観察、見ることだけがある。‥‥花開くことと死滅することの中にのみ完成がある。」295

自分自身の羨望を抑圧しない自由、「あるがまま」の羨望が自由に花開くのを受容する自由。しかし、羨望が自由に開花するのことが許されるなら、それと同時に、「空虚、寂しさ、恐怖」も顕わになる。それとともに花開いた羨望も死滅する。

一般に充分に受容することを許された感情は、受け入れられ花開くことで消えていく。それは心理療法の現場でもよく知られた事実である。こうした無数の過程こそが、心理的成長の一歩一歩の歩みなのである。思考と感情の完全な開花は、同時に完全な死滅だろうが、開花に至るには成長の事実がある。成長と開花は分かちがたく結びついているというのが私の見解である。クリシュナムルティは、こうは言わないだろうが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする