10月16日、豊島区西巣鴨にある「にしすがも創造舎」特設劇場で10日から19日まで上演された劇団山の手事情社の公演、安田雅弘構成・演出作品「YAMANOTE ROMEOandJULIET」を観る。
にしすがも創造舎は廃校になった中学校を転用して演劇の稽古場や各種ワークショップの場、子どもたちがアートにじかに触れる場、創造発信のための芸術拠点として活用されている施設である。この施設のことについてはまた改めて別稿として書いてみたい。
さて、旧中学校の体育館を改造した特設劇場での公演は、自由度の高い空間がどのように生まれ変わるのかと毎回楽しみなのだが、今回の舞台は演劇を創造することや表現することの楽しさ、醍醐味に溢れたもので、それらを観客として存分に味わうことができた作品であった。
役者たちも劇団ならではの統一された演技態のなかで楽しんでいることが伝わってきたし、ラスト近くのシーンの美しさは出色のものだったと思う。心に残る舞台である。
芝居は3本立ての構成となっており、原作を独断と偏見をまじえ、一人の俳優が、他の俳優たちを道具に語る1本目の「抄本 ロミオとジュリエット」、原作をヒントに発展させた4つのシーンを各ブースに分け、美術館を巡るように観客がそれを観て歩く形式の2本目「妄想 ロミオとジュリエット」、セリフを生かしつつ「恋愛の誕生から消滅まで」をテーマに、原作とはちがった流れで「詩的」に再構成した3本目の「印象 ロミオとジュリエット」、これらの舞台を私たちは劇場内を漂流しながら鑑賞し、体感するのである。
実は2本目の妄想篇がどういう位置づけのものなのか、観た直後は自分の中で整理ができなかったのだが、一晩経って、あのブースが実は旅芝居の一座の街頭での舞台のように思えてから、そうだったのかと腑に落ちた気がした。シェイクスピアの時代の芝居を当時の民衆はあんなふうに観たのではなかろうか。
殊に、ブースの一つ、「ジュリエットの墓」は秀逸で、中に水をたたえたビニール袋に包まれたジュリエットの墓に次々と詣でる親族たちとジュリエットの様子がナンセンスな笑いの中で描かれる。まさに3本目の印象篇に直接つながるものであるとともに、滑稽なものがシリアスな静謐に転調する驚きを私たちに与えてくれる卓抜な伏線である。
そのビニール袋のアイデアはつくづく素晴らしいと思わせられたのだが、人は死んだらゴミになるという即物性を感じさせつつ、視覚的に実に美しいというそのパラドックスの痛快さは記憶に残るものだ。
印象篇は求愛のエネルギー、あるいは人を突き動かす欲望のエネルギーというものが荒唐無稽なばかばかしい演技によって相対化され、その究極に死があるということの不条理さを感じさせて終わる。
この印象篇の冒頭、切り刻んだフィルムをばらばらにつなげたような映画的シーンが断続するのだが、にも関わらずこれが「ロミオとジュリエット」の物語であることを観客が感得するとはどういうことなのかと考えさせられた。
ことほどさように強力なシェイクスピアの物語の力を無化させるべく役者陣は奮闘し、そうして解体した物語の再構築によって舞台は新たな美を獲得していく、その過程を私たち観客は凝視し続けることで次第に心を癒されていくのである。
舞台美術の美しさ、衣装のデザインも含め、劇団ならではのまとまりを見せつけた好舞台だった。
にしすがも創造舎は廃校になった中学校を転用して演劇の稽古場や各種ワークショップの場、子どもたちがアートにじかに触れる場、創造発信のための芸術拠点として活用されている施設である。この施設のことについてはまた改めて別稿として書いてみたい。
さて、旧中学校の体育館を改造した特設劇場での公演は、自由度の高い空間がどのように生まれ変わるのかと毎回楽しみなのだが、今回の舞台は演劇を創造することや表現することの楽しさ、醍醐味に溢れたもので、それらを観客として存分に味わうことができた作品であった。
役者たちも劇団ならではの統一された演技態のなかで楽しんでいることが伝わってきたし、ラスト近くのシーンの美しさは出色のものだったと思う。心に残る舞台である。
芝居は3本立ての構成となっており、原作を独断と偏見をまじえ、一人の俳優が、他の俳優たちを道具に語る1本目の「抄本 ロミオとジュリエット」、原作をヒントに発展させた4つのシーンを各ブースに分け、美術館を巡るように観客がそれを観て歩く形式の2本目「妄想 ロミオとジュリエット」、セリフを生かしつつ「恋愛の誕生から消滅まで」をテーマに、原作とはちがった流れで「詩的」に再構成した3本目の「印象 ロミオとジュリエット」、これらの舞台を私たちは劇場内を漂流しながら鑑賞し、体感するのである。
実は2本目の妄想篇がどういう位置づけのものなのか、観た直後は自分の中で整理ができなかったのだが、一晩経って、あのブースが実は旅芝居の一座の街頭での舞台のように思えてから、そうだったのかと腑に落ちた気がした。シェイクスピアの時代の芝居を当時の民衆はあんなふうに観たのではなかろうか。
殊に、ブースの一つ、「ジュリエットの墓」は秀逸で、中に水をたたえたビニール袋に包まれたジュリエットの墓に次々と詣でる親族たちとジュリエットの様子がナンセンスな笑いの中で描かれる。まさに3本目の印象篇に直接つながるものであるとともに、滑稽なものがシリアスな静謐に転調する驚きを私たちに与えてくれる卓抜な伏線である。
そのビニール袋のアイデアはつくづく素晴らしいと思わせられたのだが、人は死んだらゴミになるという即物性を感じさせつつ、視覚的に実に美しいというそのパラドックスの痛快さは記憶に残るものだ。
印象篇は求愛のエネルギー、あるいは人を突き動かす欲望のエネルギーというものが荒唐無稽なばかばかしい演技によって相対化され、その究極に死があるということの不条理さを感じさせて終わる。
この印象篇の冒頭、切り刻んだフィルムをばらばらにつなげたような映画的シーンが断続するのだが、にも関わらずこれが「ロミオとジュリエット」の物語であることを観客が感得するとはどういうことなのかと考えさせられた。
ことほどさように強力なシェイクスピアの物語の力を無化させるべく役者陣は奮闘し、そうして解体した物語の再構築によって舞台は新たな美を獲得していく、その過程を私たち観客は凝視し続けることで次第に心を癒されていくのである。
舞台美術の美しさ、衣装のデザインも含め、劇団ならではのまとまりを見せつけた好舞台だった。