seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

醒めた眼の「瀕死の王」

2008-10-24 | 演劇
 10月3日に東池袋の「あうるすぽっと」(豊島区立舞台芸術交流センター)でウジェーヌ・イヨネスコ作、佐藤信演出の「瀕死の王」を観た。
 これについては東京芸術劇場名誉館長の小田島雄志氏による申し分なく目配りの利いた劇評が18日付けの読売新聞夕刊に載っている。それ以上なにも言うことはないとも思えるが、観客としての感想を一つ。
 主人公の王たるベランジェ1世(柄本明)は、2つの価値観によって引き裂かれた存在であり、その狭間で瀕死の時を迎えようとしている。何百年の時間を生き延び、長大な時間と国家を支配しながら、縮みゆく国家を持て余しつつ、老いの中で死への恐怖におののいている。二人の妻、第1王妃(佐藤オリエ)と第2王妃(高田聖子)もまた冷たく残酷なリアリズムと愚かしく無邪気なファンタジーによって王を引き裂こうとする。
 医者役の斎藤歩、衛兵の谷川昭一朗も含め、これら力量のある役者陣によってその作品世界は明確に構築されていたが、なかでも柄本明の存在感は圧倒的である。彼の演技態そのものが、演ずる自分自身を冷徹に見つめる醒めた眼差しと身体の深奥から発散される狂気によって支えられていると思え、その振幅の中で描き出される王の造形は比類のないリアリティを獲得している。
 もっとも私自身の好みで言えば、全体としてこの舞台をよりスラップスティックな色付けで不条理性をもう少し際立たせたいという感想を持つ。では日本人俳優が演じるスラップスティックとはどういうものなのかと問われれば答える術もないのだが。

 この舞台で特筆すべきは、照明デザインの美しさである。ほとんど裸舞台といってよい空間に置かれた舞台装置や道具、役者個々の存在感をくっきりと浮かび上がらせながら、主人公たる王が支配し、妄想と混濁した意識の中で見失っていく「世界」を明確な輪郭のもとに描き出すのに大きな力を持つものだった。
 とりわけ、終幕近く、舞台上に吊り下げられていた丸い大時計がゆっくりと引き上げられていったその後にぽっかりと口をあけた闇の深さは、王の人生や王国の歴史が刻んできた時間の空虚さを私たちに突きつける。

 余談であるが、この劇場の舞台は、通常プロセニアム形式でありながら、その額縁部分を取り外すと、固定席ながらいわゆるオープン形式に近い舞台にすることができる造りとなっている。
 今回の「瀕死の王」はこのオープン形式を生かした演出によって、この劇場の新しい魅力を観客に示し得たのではないかと思う。見慣れた空間が、さまざまな演出によって、まったく違った顔を見せるという発見は、芝居を観るうえでの一つの楽しみである。
 これからも「あうるすぽっと」の制作者の皆さんには野心的な舞台づくりに挑み続けてもらいたいと思う。

にしすがも少年探偵団

2008-10-24 | 演劇
 先日、「にしすがも創造舎」での観劇について書いたので、すでに2ヶ月も前のことなのだけれど、同じ特設劇場で観た江戸川乱歩・原作、倉迫康史・構成演出作品「少年探偵団 怪人二十面相を追え!!」(8月20日~26日、制作:NPO法人アートネットワーク・ジャパン)についても少しばかり感想を書いておきたい。
 フランスの演出家ジョルジュ・ラヴォーダンの言葉ではないが、まさに「演劇の難しさは保存できないこと」にあるのだ。たとえ断片であれ、演劇作品について観客の側から記憶を留めようとする行為にもそれなりの意味はあるだろうと思う。
 さて、今回の舞台は、夏休み期間中の8月いっぱい、「にしすがも創造舎」(旧朝日中学校)の校舎・体育館の全部を使って展開された「にしすがもアート夏まつり‘08『江戸川乱歩とにしすがも少年探偵団』」の一環として上演された演劇公演で、昨年の「オズの魔法使い」に引き続き、「子どもに見せたい舞台シリーズ第2弾」として制作された作品である。
 私は短期間に2回も観に行ったくらいだから、この舞台にとても愛着を感じたのだが、問題は、来場した子どもたちの何割くらいが少年探偵団や怪人二十面相のことを知っていたかということである。ちなみに初日に私と同行した仕事仲間の20歳代の連中はそのいずれも知らないとのことであった。(隔世の感!)明智小五郎といえば、有名なのは天知茂だなあ、「黒蜥蜴」の初演はたしか芥川比呂志がやったよねえ、などと言ってかえって皆から無視される羽目になってしまった。
 そうした状況で、この舞台は子どもたちに何を見せようとしたのか、何を見せたかったのか。
 ちなみに、「子どもに見せたい舞台」というコンセプトは、どうも大人の視点からの押し付けのような気がしてならないのだが、これはまた別の問題である。
 冒頭、ウサギならぬ小林少年の後を追ってウサギ穴に落ちた子どもたちがレトロな昭和の東京・池袋、立教大学近くにある乱歩邸の幻影城と呼ばれた土蔵の前にワープして・・・、という具合に「不思議の国のアリス」のパロディで芝居は始まり、怪人二十面相と明智小五郎、そして少年探偵団による知恵くらべと追いかけっこの物語が展開する・・・。
 はじめ、私が勝手に期待したのは、子どもの頃、夢中になって読んだ「少年探偵団」やテレビドラマの「怪人二十面相」を見て感じたであろうワクワク感である。なぜ、当時の子どもたちはあんなにも夢中になったのか。その秘密が解き明かせるかと思ったのだが、それを創り手たちはどのように分析していたのだろう、聞いてみたい気がする。
 多分それは、自分ではない何ものかへの変身願望の体現であり、犯罪という秘儀へのあこがれや宝飾と虚飾に彩られた豊かさへの復讐であり、少年探偵団に選ばれし者の恍惚と不安への密やかな嫉妬のようなものであったのかも知れない。
今回の私にとっての新発見は、怪人二十面相と明智小五郎という二人の人格あるいは存在そのものが、裏返しの自己同一性を内包しているということであった。そんなこと当たり前といわれるかも知れないのだが、そんな発見に内心ニヤニヤ、ワクワクしていたのである。
 犯罪者を追うものが最も犯罪に魅せられている。二人は同じ夢を見る裏返しの仮面を被った暗夜の道化師なのである。
 このことは、途中、舞台中央の階段を降りてくる明智と、下から上がって行く怪人二十面相がスローモーションですれ違いざまにお互いを振り返るというシーンに象徴的に表れている。二人は鏡を間にそれぞれ自分を見つめているようにも見えるのだが、二十面相の顔は仮面に覆われており、それはまさに明智自身の自己投影された姿にほかならないのだと思える。だからこそ明智の妻である文代さんは、同時に二人を憎みながら愛したのではないだろうか。
 今回の舞台は、低予算のなか、制作者の方たちが苦労したことは十分想像できるが、その舞台美術、照明、音響、もちろん子役をはじめとする演技陣も含めて、いずれも舞台づくりへの強い思いと愛情によって支えられ、大きな成果を上げた作品だったと評価できる。