seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

現代語訳「源氏物語」

2008-12-07 | 読書
 今年は源氏物語の千年紀とのことで、さまざまな催しが各地で行われている。ブームとも言えるムーブメントである。だからというわけではないのだが、今、少しずつ物語を読み進めているところである。
 とは言っても、現代語訳なのだが。もちろん原文で読むにこしたことはないのだけれど、やはり骨が折れる。あの主語が省略され、独特の敬語や言い回しに満ちた古文はなかなか歯の立つものではない。
 それにしても、これまで実に多くの人たちが現代語訳に挑んできた。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴、そして最近では大塚ひかり・・・、そのすべてがいま文庫で読める環境にあるというのが実に素晴らしい。これは世界に誇るべき日本の文化的状況ではないだろうか。
 ちなみに私が読んでいるのは円地訳である。いろいろ読み比べた結果、文体的にはこれが一番自分には合っていると思えるのだ。かつて昭和40年代に文庫化された円地訳だが、しばらく絶版になっていた。それが今年になり、活字も大きくなって復刊されたのは喜ばしいことだった。
 そのことをT公論の元編集長で私が私淑するK先生に申し上げたところ、「円地訳が一番好きというのは初めて聞いたなあ。でも、あの人は大変な人だったよ」と笑っていたけれど・・・。
 円地訳には、実は原文にないものがたくさん書き込まれているというのは有名な話だが、それでは瀬戸内訳がどうかというと、うーんとうならざるを得ないのではないか。
 少し読み比べてみると、たとえば―――
 「夕顔」の巻で、光源氏が六条御息所のところに泊まった翌朝、世が明ける前に帰る場面である。
 「・・・霧のいと深き朝、いたく、そそのかされ給いて、ねぶたげなる気色に、うち歎きつつ、いでたまふを、中将の御許、御格子一間あげて、「見たてまつり送り給へ」とおぼしく、御几帳ひきやりたれば、御髪もたげて、見いだし給へり。前栽の、色々乱れたるを、過ぎがてに、やすらひ給へるさま、げに類なし。・・・」

 これが円地文子訳では次のように描かれる。
 「・・・霧の深くたちこめた朝、源氏の君は度々起こされて後に、まだねむたそうなご様子で、何やら溜息をつきながら、簀子にお立ち出でになった。
 中将の君という女房が、御格子を一間だけ押し上げて、お見送り遊ばせという心組みらしく、御几帳も少しずらしたので、女君は静かに身を起こして外の方へ眼を向けられた。枕元の御髪筥にうずたかくたたなわっていた黒髪が、女君の起き直ってゆかれるのにつれて音もなくゆるゆると背を伝い上がってゆき、やがて黒漆の滝のように背中一面に流れた。
前栽にさまざまの秋草の花が咲き乱れているのを、見過ごしにくく、佇んでいられる光る君の御様子は、ほんとうに、世人のもてはやす通り類なく美しくあでやかにお見えになる。・・・」

 瀬戸内寂聴訳では次のようになる。
 「・・・霧がたいそう深い朝のことでした。昨夜は久々に、源氏の君と六条の御息所はこまやかな愛の一夜を共になさいました。御息所はしきりに早くお帰りになるよう源氏の君をおせかしになります。
 昨夜のはげしい愛の疲れに、源氏の君は、まだ眠たそうなお顔のまま、溜め息をつきながらお部屋からお出ましになりました。女房の中将の君が、御格子を一間ひき上げて、御息所にお見送りなさいませというように、御几帳をずらせました。女君は御帳台の中からまだ身も心も甘いけだるさにたゆたいながら、ようやく頭を持ち上げて、外を御覧になりました。
 庭先の草花が色とりどりに咲き乱れているのにお目をとめられ、美しさに惹かれて、縁側にたたずんでいらっしゃる源氏の君のお姿は、この上もなくお美しく、惚れ惚れいたします。・・・」

 大胆にセックスを想起させる描写を入れ込んでいる点で、どちらもどっちという感じではないかなあと私には思えるのだが・・・。

 ちなみに、円地訳の「源氏物語」には、原文になかった文章があると言われることに、円地自身十分意識的だったようで、そのことを瀬戸内寂聴が訊ねると、「わたしは『源氏』をそのまま訳したのではありません。強姦してやりました」と言ったというエピソードがある。
 また、川端康成は「『円地源氏』は、円地さんの小説です。創作ですよ」と評したそうだが、その川端が「源氏物語」の訳に取り組むという噂が円地文子の耳に入ったときのこと、
 「川端さんが『源氏』をはじめるんですって」と怖い顔でいう。「絶対にできるわけありません。あなた見ているでしょう、『源氏』を訳するのがどんなに大変か」
 と、新潮文庫「源氏物語一」の解説で瀬戸内寂聴が書いている。
 また、この同じ場面が、「源氏物語六」の林真理子の解説では、次のように表されている。
 「それだけではない。川端康成氏が源氏物語の現代語訳に意欲を見せていると聞き、円地氏は瀬戸内先生にこう言いはなったという。ノーベル賞をもらって、ちやほやされている人に、源氏の訳などが出来るはずはない!」

 実に面白い。げに恐ろしきは女の執念、いやいやそれなくして源氏訳は達成できない難事業だったのだろうなあ。

レミーのおいしい批評

2008-12-07 | 言葉
 偶然にせよ、よい言葉に出会うと嬉しくなる。
 たまたまディズニーアニメのブラッド・バード監督作品「レミーのおいしいレストラン」のワンシーンをテレビで観たのだ。紹介するまでもないけれど、これはグルメの都パリにある高級レストラン「グストー」を舞台に繰り広げられる、驚くべき料理の才能を持ち、「シェフになりたい」という叶わぬ夢を抱えたネズミのレミーの物語・・・である。
 物語の最後、登場人物の一人で、シェフがもっとも恐れる料理評論家イゴーが語る言葉が素晴らしい、と思わず書き留めたくなる。脚本が素晴らしいのだ。ちなみにこのイゴーの声はあの名優ピーター・オトゥールとのこと。(以下、記憶による引用)
 「評論家の仕事は総じて楽だ。リスクは少なく、立場は常に有利だ。作家と作品を批評するのだから。そして、辛口の批評は我々にも、読者にも愉快だ。
 だが、評論家は知るべきだ。世の中を広く見渡せば、平凡な作品のほうが、その作品を平凡だと書く評論よりも意味深いのだと。
 だが、我々がリスクを冒す時がある。新しいものを発見し、擁護する時だ。世間は新しい才能に冷淡であるため―――。新人には支持者が必要だ。
 昨夜、私は新しい体験をした。あまりにも意外な者が調理した見事なひと皿。
 それは、よい料理に対する私の先入観への挑戦だった。いや、もっと言おう。心底、私を揺さぶったと。
 誰でもが偉大なシェフになれるわけではない。だが、どこからでも偉大なシェフは誕生する・・・」
 シェフという言葉を役者に置き換えてみたい。あるいは演出家でも、劇作家でもなんでもよいのだが。演劇界にも大先生と呼ばれる権威ある評論家は多い。けれど、これほど率直に語り、真摯に新しい才能を発見し、認めようとする批評家がいるだろうか。
 来たれ、新しい才能。出でよ、真の批評家―――。

 さて、もうひとつ。こちらは6日付けの毎日新聞朝刊のコラムで紹介されていた音楽評論家吉田秀和の言葉。95歳で現役の吉田氏の50代の頃の言葉である。
 「自分が一向に傷つかないような批評は、貧しい精神の批評だといわなければならないのではあるまいか」
 こちらのほうはガツンとくる。こんなふうにネット上に匿名でゆるい言葉を書き続ける自分は一体何なのだろうと・・・。
 せめて、自分なりに精一杯の真面目な言葉を紡ぎたいと願ってはいるのだけれど。