一昨日、年に二度三度会うばかりの親しい友人たち三人と忘年会に集まった。みな二十歳そこそこであった頃から直接間接の付き合いが今に至っているのは稀有なこととして素直にいとおしいと感じられる歳となっている。
若い頃は誰もが自分は天才と思い、独立不羈と唯我独尊を謳歌して憚らなかったものだが、そんな片意地というか大きな勘違いも若気の至りと笑って振り返るこの頃である。そうはいっても煩悩からはなかなか脱せられないのだけれど。
さて三畳ほどの狭い飲み屋の座敷で酒を飲み交わし、濃密な時間を過ごしていると、こうした小さなコミュニティの延長に国家というものがあることをつい忘れてしまう。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
こんな寺山修司の歌を思い出したりするけれど、小さな友達の輪、もう少し大きく考えれば趣味のサークルやプロジェクトの集団、会社や地域コミュニティ、自治体など、そうしたものから国家レベルへと想像力を広げることが実はいまこそ求められているのかも知れない。
今日付の毎日新聞に政策研究大学院准教授の岩間陽子氏が、米国のブッシュ大統領が任期の最後に訪問したイラクでの記者会見で靴を投げつけられた例の「事件」について書いているが、まさに、ブッシュ大統領が身軽によけて見せたその靴が、後ろにいたはずの日本の顔面に命中していたかも知れないのだ。戦争は飲み屋の片隅でくだを巻くおやじたちの薄くなった後頭部のすぐそこに迫っている。
そんなことを考えたのは、忘年会に向かう電車のなかで、作家で起訴休職外務事務官の佐藤優氏の著作「国家と神とマルクス」を読んだせいだろうか。これは2007年に刊行された単行本の文庫版であるが、佐藤氏は文庫化された今年10月時点での考え方をそれぞれの文章のあとに付記している。佐藤氏の旺盛な仕事は、いまの世の中で私たちが考えなければならない物事の指針を与えてくれる重要なものだ。ついでに言えば、書店に平積みになっている凡百のビジネス書よりも仕事に役立つ実用的なものだと思う。
さて、この本に収められている書評のなかで佐藤氏は、宇野弘蔵は「資本論」が想定する純粋の資本主義社会では、資本家、労働者、土地所有者の三大階級しか存在しないと考えたが、これに対し、柄谷行人が「近代文学の終わり」で、マルクスは一つの階級を見落としている、それは税を徴収し、再分配する階級、すなわち官僚機構であり、第四の階級としての官僚を含めるべきであると指摘していることを紹介している。
ちなみにこうした階級論において、役者や芸術家というものがどういった位置づけにあるのか、というのが私の目下の関心事なのだが、「資本論」的にはやはり「労働者」ということになるのだろうか。
このあたりになると私の考えは朦朧としてただの酔っ払いのたわごとに過ぎなくなるが、世の芸術家には、このように秩序立てられた階級社会や価値観を攪拌してリセットする働きや役割があるように思えてならないのだ。それは階級の埒外に放逐された存在かも知れないのだけれど・・・。
若い頃は誰もが自分は天才と思い、独立不羈と唯我独尊を謳歌して憚らなかったものだが、そんな片意地というか大きな勘違いも若気の至りと笑って振り返るこの頃である。そうはいっても煩悩からはなかなか脱せられないのだけれど。
さて三畳ほどの狭い飲み屋の座敷で酒を飲み交わし、濃密な時間を過ごしていると、こうした小さなコミュニティの延長に国家というものがあることをつい忘れてしまう。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
こんな寺山修司の歌を思い出したりするけれど、小さな友達の輪、もう少し大きく考えれば趣味のサークルやプロジェクトの集団、会社や地域コミュニティ、自治体など、そうしたものから国家レベルへと想像力を広げることが実はいまこそ求められているのかも知れない。
今日付の毎日新聞に政策研究大学院准教授の岩間陽子氏が、米国のブッシュ大統領が任期の最後に訪問したイラクでの記者会見で靴を投げつけられた例の「事件」について書いているが、まさに、ブッシュ大統領が身軽によけて見せたその靴が、後ろにいたはずの日本の顔面に命中していたかも知れないのだ。戦争は飲み屋の片隅でくだを巻くおやじたちの薄くなった後頭部のすぐそこに迫っている。
そんなことを考えたのは、忘年会に向かう電車のなかで、作家で起訴休職外務事務官の佐藤優氏の著作「国家と神とマルクス」を読んだせいだろうか。これは2007年に刊行された単行本の文庫版であるが、佐藤氏は文庫化された今年10月時点での考え方をそれぞれの文章のあとに付記している。佐藤氏の旺盛な仕事は、いまの世の中で私たちが考えなければならない物事の指針を与えてくれる重要なものだ。ついでに言えば、書店に平積みになっている凡百のビジネス書よりも仕事に役立つ実用的なものだと思う。
さて、この本に収められている書評のなかで佐藤氏は、宇野弘蔵は「資本論」が想定する純粋の資本主義社会では、資本家、労働者、土地所有者の三大階級しか存在しないと考えたが、これに対し、柄谷行人が「近代文学の終わり」で、マルクスは一つの階級を見落としている、それは税を徴収し、再分配する階級、すなわち官僚機構であり、第四の階級としての官僚を含めるべきであると指摘していることを紹介している。
ちなみにこうした階級論において、役者や芸術家というものがどういった位置づけにあるのか、というのが私の目下の関心事なのだが、「資本論」的にはやはり「労働者」ということになるのだろうか。
このあたりになると私の考えは朦朧としてただの酔っ払いのたわごとに過ぎなくなるが、世の芸術家には、このように秩序立てられた階級社会や価値観を攪拌してリセットする働きや役割があるように思えてならないのだ。それは階級の埒外に放逐された存在かも知れないのだけれど・・・。