seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

世阿弥の観客論

2008-12-19 | 舞台芸術
 芝居は観客に理解されない、と登場人物に語らせたピランデルロ。
 表現する側にとって、演ずる者にとって、そして観客にとって必要な演劇とは何だろう。双方の幸福な出会いとは何なのだろう、ということをよく考える。
 真に理解されるとはどういうことをいうのだろう。

 最近、世阿弥の「風姿花伝」を読むたびに、もっと早くこの本と出会うのだったと悔やむことが多い。自分の浅学非才をいまさら嘆いても仕方がないのだけれど、役者であり、演出家であり、プロデューサー、劇団経営者、興行主でもあった世阿弥のこの著作は、演技論としても、演出論としても、ビジネス書としても実際的で実利的でじつに興味深い。
 その一節にこんなくだりがある。

 「上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利の眼に合ふ事なし。下手にて、目利の眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の、目利かずの心に合はぬ事、是は目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、又、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん為手をば、花を極めたるとや申すべき。」

 これを歌人の馬場あき子の解説を援用しながら読み直してみると―――。

 あまりに高級すぎて、目の利かない観客や批評家に受け入れられない芸がある。下手はもとより、目利きの意に添うはずもない。下手の評判が悪いのは当然だが、悲しいのは優れた演者の芸が、進んでいすぎるがために目利かずの心に入っていけないことである。
 しかし、努力家の世阿弥は、そうした場合にも工夫と芸能人のサービス精神によって、目利かずの眼にも面白いと見えるように能を舞えといっている。
 世阿弥は、最高の芸術が真に最高であるためには必ず備えている条件としての普遍性について「工夫と達者(熟練)」を求めているのであり、こうした芸の、広く面白がられ、深く面白いものこそ「花を極めたる」芸といえるものだと断言するのだ。

 前衛的で最先端の優れた舞台芸術が、進んでいすぎるがために一般観客や旧体質の批評家の心には届かず、受け入れられないことがある。そればかりか、現代に置き換えて考えれば、スポンサーである民間企業の社長や公共劇場を擁する自治体の首長、住民の感性にそぐわず、まったく受け入れられないという事態もありうるだろう。
 そうした場合、世間に受け入れられず、理解されないことを嘆くばかりでよいのか。
 そうではなく、工夫と熟練によって、舞台芸術そのものに対する理解力のない観客をも納得させ、面白がらせる技量を示すべきだというのが世阿弥の教えなのである。
 
 これは、演劇と観客が真に出会うための仕掛けを戦略的に行うための要諦でもある。舞台芸術は複製も保存もきかず、生で賞味されなければまったく意味のない芸術である、という宿命を負っている。
 私たちは深く考えるべきなのだろう。
 
 独りよがりで未熟なものに見向きする暇など誰も持ち合わせてはいないのだから。