映画「英国王給仕人に乾杯!」の中で、主人公ヤンの人生の師ともいうべき商人ヴァルデン氏が客に向かって言う売り口上・・・
「私はファン・ベルケル社の代表。世界で最大の企業はカトリック教会です。彼らは目に見えず、手に触れないものを商う。我々が“神”と呼ぶものを。世界で第2の当社は秤を製造している・・・」
現在世界的な大津波に見舞われてはいるが、金融市場の本質的な部分が他の市場と異なっているのは、将来の利益に関する「約束」を取引している点であると一橋大学名誉教授の今井賢一氏が書いている。
「神」も「約束」も人々からの「信頼」によって担保されているところが似通っていると言えるのではないだろうか。
こんな時にいつも考えるのが、芸術や芸能、エンターテインメントは何を担保として取引されるものなのかということである。
話を思い切り単純化してしまえば、それは名声であったり、テレビに出演し、人々の前に露出しているその頻度だったり、古典芸能であればその人の家柄のようなものだったりするのだろう。
誰しも名前も知らないような役者の出ている舞台よりは、テレビのバラエティ番組で名の売れたアイドルやタレントの出演する出し物により関心を抱くものだ。
そのこと自体に異論もあるだろうが、中劇場以上の規模で興行を打つ場合、プロデューサーは一定以上の集客を見込めるタレントを使いたがる、というのは一面の真実であるだろう。
いま、派遣切りなど、雇用の問題が大きな社会的関心事となっている。そうした時、大衆演劇の沢竜二が職を失った人々を対象に役者や裏方として劇団で働いてもらうという構想を打ち出し、その面接あるいはオーディションの様子がテレビニュースでも放映されていた。
このことが果たして現実的に成立する構想なのか否かということには、いささか興味を引かれてしまう。
そもそも昨日までまったく畑違いの職場に派遣されていた人が、いきなり大衆演劇の舞台で役者を務めることができるのだろうか。彼らは何を担保として大衆から木戸銭を得ようというのか。
翻って、このたびの金融危機の最大原因とされるクレジット・デフォルト・スワップ(CDU)は、格付け機関の格付けを鵜呑みにして流通する商品となったことで「信頼」や「約束」が反故にされ、詐欺的で「ねずみ講」的なものに変質してしまった、と言われる。
いまや旧来の「信頼」は価値を失ってしまったのだ。
そんな変質の時代に今さら何を信頼しようというのか。価値観が引っくり返ってしまったような時代だからこそ、どんな出自をもった人間だろうが、無名だろうが、舞台は誰をも吸引するブラックホールと化して人々を魅了しようとするのではないか。
昔よく通った大衆演劇の芝居小屋では、さっきまで切られ役をしていたおじさんが、白塗りのまま舞台袖でスポットライトを操作する照明係に早変りしていたりする。あるいはその人は昼間、芝居小屋の二階の窓から洗濯物を取り込んでいたはずだ。そんなおじさんの後姿を見ながら、この人は一体どんな人生を歩んできたのだろうと考えたりしたものだ。
そこには生活の匂いと非日常の暮らしとが違和感なく結びついて息づいている。そんな芝居小屋の空気が私は好きでならない。
大衆演劇の舞台にはそんな何もかもを受け入れる度量の大きさのようなものがあるのだ。
座長・沢竜二の挑戦に快哉を送ろう。
「私はファン・ベルケル社の代表。世界で最大の企業はカトリック教会です。彼らは目に見えず、手に触れないものを商う。我々が“神”と呼ぶものを。世界で第2の当社は秤を製造している・・・」
現在世界的な大津波に見舞われてはいるが、金融市場の本質的な部分が他の市場と異なっているのは、将来の利益に関する「約束」を取引している点であると一橋大学名誉教授の今井賢一氏が書いている。
「神」も「約束」も人々からの「信頼」によって担保されているところが似通っていると言えるのではないだろうか。
こんな時にいつも考えるのが、芸術や芸能、エンターテインメントは何を担保として取引されるものなのかということである。
話を思い切り単純化してしまえば、それは名声であったり、テレビに出演し、人々の前に露出しているその頻度だったり、古典芸能であればその人の家柄のようなものだったりするのだろう。
誰しも名前も知らないような役者の出ている舞台よりは、テレビのバラエティ番組で名の売れたアイドルやタレントの出演する出し物により関心を抱くものだ。
そのこと自体に異論もあるだろうが、中劇場以上の規模で興行を打つ場合、プロデューサーは一定以上の集客を見込めるタレントを使いたがる、というのは一面の真実であるだろう。
いま、派遣切りなど、雇用の問題が大きな社会的関心事となっている。そうした時、大衆演劇の沢竜二が職を失った人々を対象に役者や裏方として劇団で働いてもらうという構想を打ち出し、その面接あるいはオーディションの様子がテレビニュースでも放映されていた。
このことが果たして現実的に成立する構想なのか否かということには、いささか興味を引かれてしまう。
そもそも昨日までまったく畑違いの職場に派遣されていた人が、いきなり大衆演劇の舞台で役者を務めることができるのだろうか。彼らは何を担保として大衆から木戸銭を得ようというのか。
翻って、このたびの金融危機の最大原因とされるクレジット・デフォルト・スワップ(CDU)は、格付け機関の格付けを鵜呑みにして流通する商品となったことで「信頼」や「約束」が反故にされ、詐欺的で「ねずみ講」的なものに変質してしまった、と言われる。
いまや旧来の「信頼」は価値を失ってしまったのだ。
そんな変質の時代に今さら何を信頼しようというのか。価値観が引っくり返ってしまったような時代だからこそ、どんな出自をもった人間だろうが、無名だろうが、舞台は誰をも吸引するブラックホールと化して人々を魅了しようとするのではないか。
昔よく通った大衆演劇の芝居小屋では、さっきまで切られ役をしていたおじさんが、白塗りのまま舞台袖でスポットライトを操作する照明係に早変りしていたりする。あるいはその人は昼間、芝居小屋の二階の窓から洗濯物を取り込んでいたはずだ。そんなおじさんの後姿を見ながら、この人は一体どんな人生を歩んできたのだろうと考えたりしたものだ。
そこには生活の匂いと非日常の暮らしとが違和感なく結びついて息づいている。そんな芝居小屋の空気が私は好きでならない。
大衆演劇の舞台にはそんな何もかもを受け入れる度量の大きさのようなものがあるのだ。
座長・沢竜二の挑戦に快哉を送ろう。