米国のタイム誌で「2008年 世の中に影響を与えた100人」の一人に選ばれたジル・ボルティ・テーラー博士のことをご存知の方は多いと思う。
彼女は、神経解剖学者として研究成果をあげていた37歳の時に脳卒中に倒れ、一時、言語や思考をつかさどる左側の脳機能が停止したが、8年のリハビリを経て再生を果たしたのである。
その著書「奇跡の脳」は大きな話題となり、その体験をもとにした彼女の講演は多くの人々に感動と励ましを与え続けている。
その彼女を追ったドキュメンタリー番組が先日NHKで放映された。私の見たのは再放送だったようだから、おそらくそれ以前に放送され、反響を呼んだのに違いない。
そのジル・テーラー博士が興味深い話をしていた。
手術後の話であるが、彼女は昔の記憶をなくしたばかりか、文字を認識できなくなっていたのだ。
その後のリハビリで読解機能は完全復活するのだが、当初は文字を見ても、それは単なる点の集合か、単なる線の寄り集まりにしか見えなかったというのだ。
それに似た経験は誰にもあるのではないだろうか。
私は小学生の頃、漢字を覚えるために、同じ文字を何度も何度も書き取るという勉強をしていた。同じ文字を見つめ、書き続けていると、やがてそれは単なる線の固まりでしかなくなり、どうしてこれがそうした音を持ち、意味を有するものなのかがまるで分からなくなる・・・。
似たような話が中島敦の小説にある。
「文字禍」というその小説はおおよそこんな話である。
古代アッシリアのアシュル・バニ・アパル大王治世の頃、毎夜、宮廷の図書館の闇の中でひそひそと怪しい話し声がするという噂が立った。
これはどうしても書物共、あるいは文字共の話し声と考えるよりほかにないということで、巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバがこの未知の精霊についての研究を命ぜられ、博士は日ごと問題の図書館に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った。
当時の書物は紙草(パピルス)ではない。粘土の板に硬筆で複雑な楔形の符合を彫り付けるものである。書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。
文字に霊ありやなしやを終日文字を凝視することで解き明かそうとした博士の身にやがておかしなことが起こる。
一つの文字を長く見つめているうちに、いつしかその文字が解体して、意味のない一つ一つの線の交錯としか見えなくなってきたのである。単なる線の集まりが、なぜ、そういう音とそういう意味とを持つことが出来るのか、どうしても分からなくなってしまったのだ。
以来、同様の現象が、文字以外のあらゆるものについても起こるようになる。博士が一軒の家をじっと見ているうちに、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。
人間の身体を見ても、みんな意味のない奇怪な形をした部分部分に分析され、どうしてこんな恰好をしたものが人間と呼ばれるのかまるで理解できなくなる。
博士は、アッシリアの国が今や見えざる文字の精霊のために全く蝕まれてしまったとの研究報告をするが、機嫌を損ねた大王によって即日謹慎を命じられてしまう。
そればかりではなかった。たまたま自家の書庫の中にいた博士は、突発した大地震に襲われるのである。
「夥しい書籍が……数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪いの声とともにこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した」のである。
さて、手術後しばらくは文字を解読する機能を失ったジル・テーラー博士だが、その体験は彼女を不幸にしたわけではなかった。
それどころか、文字を読めなかった日々、彼女は喩えようのない幸福感に包まれていたというのだ。
「自分は生きている、私は生きている」という実感が彼女を心の底から突き動かし、幸福感が全身を包み込んだのだ。
文字に意味を付与し、それを読むことの快楽は脳のどんな機能によるものなのか、あるいは本当に文字に潜む精霊の仕業なのか。
文字を読みすぎたために破滅した古代の老博士を引き合いに出すまでもなく、文字を読むことから解放された世界は、もしかしたら相当に幸福なものなのかも知れない。
彼女は、神経解剖学者として研究成果をあげていた37歳の時に脳卒中に倒れ、一時、言語や思考をつかさどる左側の脳機能が停止したが、8年のリハビリを経て再生を果たしたのである。
その著書「奇跡の脳」は大きな話題となり、その体験をもとにした彼女の講演は多くの人々に感動と励ましを与え続けている。
その彼女を追ったドキュメンタリー番組が先日NHKで放映された。私の見たのは再放送だったようだから、おそらくそれ以前に放送され、反響を呼んだのに違いない。
そのジル・テーラー博士が興味深い話をしていた。
手術後の話であるが、彼女は昔の記憶をなくしたばかりか、文字を認識できなくなっていたのだ。
その後のリハビリで読解機能は完全復活するのだが、当初は文字を見ても、それは単なる点の集合か、単なる線の寄り集まりにしか見えなかったというのだ。
それに似た経験は誰にもあるのではないだろうか。
私は小学生の頃、漢字を覚えるために、同じ文字を何度も何度も書き取るという勉強をしていた。同じ文字を見つめ、書き続けていると、やがてそれは単なる線の固まりでしかなくなり、どうしてこれがそうした音を持ち、意味を有するものなのかがまるで分からなくなる・・・。
似たような話が中島敦の小説にある。
「文字禍」というその小説はおおよそこんな話である。
古代アッシリアのアシュル・バニ・アパル大王治世の頃、毎夜、宮廷の図書館の闇の中でひそひそと怪しい話し声がするという噂が立った。
これはどうしても書物共、あるいは文字共の話し声と考えるよりほかにないということで、巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバがこの未知の精霊についての研究を命ぜられ、博士は日ごと問題の図書館に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った。
当時の書物は紙草(パピルス)ではない。粘土の板に硬筆で複雑な楔形の符合を彫り付けるものである。書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。
文字に霊ありやなしやを終日文字を凝視することで解き明かそうとした博士の身にやがておかしなことが起こる。
一つの文字を長く見つめているうちに、いつしかその文字が解体して、意味のない一つ一つの線の交錯としか見えなくなってきたのである。単なる線の集まりが、なぜ、そういう音とそういう意味とを持つことが出来るのか、どうしても分からなくなってしまったのだ。
以来、同様の現象が、文字以外のあらゆるものについても起こるようになる。博士が一軒の家をじっと見ているうちに、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。
人間の身体を見ても、みんな意味のない奇怪な形をした部分部分に分析され、どうしてこんな恰好をしたものが人間と呼ばれるのかまるで理解できなくなる。
博士は、アッシリアの国が今や見えざる文字の精霊のために全く蝕まれてしまったとの研究報告をするが、機嫌を損ねた大王によって即日謹慎を命じられてしまう。
そればかりではなかった。たまたま自家の書庫の中にいた博士は、突発した大地震に襲われるのである。
「夥しい書籍が……数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪いの声とともにこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した」のである。
さて、手術後しばらくは文字を解読する機能を失ったジル・テーラー博士だが、その体験は彼女を不幸にしたわけではなかった。
それどころか、文字を読めなかった日々、彼女は喩えようのない幸福感に包まれていたというのだ。
「自分は生きている、私は生きている」という実感が彼女を心の底から突き動かし、幸福感が全身を包み込んだのだ。
文字に意味を付与し、それを読むことの快楽は脳のどんな機能によるものなのか、あるいは本当に文字に潜む精霊の仕業なのか。
文字を読みすぎたために破滅した古代の老博士を引き合いに出すまでもなく、文字を読むことから解放された世界は、もしかしたら相当に幸福なものなのかも知れない。