seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

読み聞かせ、朗読の面白さ

2010-06-04 | 舞台芸術
 先月30日の日曜日、池袋にある「みらい館大明」で開催されていた「プチ演劇祭」を覘いてきた。
 「みらい館大明」は閉校となった旧大明小学校の施設を転用し、地域住民によって組織されたNPO法人が市民のための生涯学習の場として運営する施設である。
 肩ひじの張らない趣味のサークルからちょっと真面目な学習会やパソコン教室、外国人のための日本語教室、さらには著名な劇団の稽古場と、実に幅広い利用者でにぎわっている。
 私が観たのは、JOKO演劇学校の三期生有志による宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」の朗読劇である。
 3人の女優(のタマゴ?)が役割分担しながら、地の文も含めて読み進めていく。部屋の蛍光灯を消したり点けたりといった簡単な照明と小さなスピーカーから流れる効果音楽だけという簡素なステージなのだが、それなりに楽しめた。
 もちろん素材のよさ、ということはあるのだが、3人の出演者が衒いのない素直な発声と演技で淡々と読み進めていったのがよかったのだろう。
 朗読するうえでの面白さ、同時に難しさでもあるのだろうが、それは言葉をどうやって聴き手に伝えていくかということの困難さにあるのだろう。素材となった作品の言葉を届けるには素材の味を損なってはいけない。
 私など大いにその傾向があるのだが、いたずらに感情を込め過ぎたり、面白おかしく表現したりしようとする中途半端な技術はかえって邪魔なのである。

 さて、今、朗読はある意味でブームといえるような活況を呈しているように思える。
 朗読教室などで受講生を募集するとたくさんの人が集まるし、あちらこちらで朗読サークルがさまざまな活動を行っている。プロの俳優でも朗読劇をライフワークにしている人をたくさん見かけるようになった。
 これは自己表現の手段としての手軽さが受けているというだけの話ではあるまい、というのが私の感想である。朗読にはなかなか一言ではいえないような魅力が潜んでいるのに違いないのだ。
 だが、それらの活動は未だ点在しているに過ぎない、というのが次に感じるところでもある。
 これを何とか大きなムーブメントにできないだろうかと私は数年前から考えているのだが、なかなか実現できないでいる。
 頭で考えてばかりいないで、行動するに如くはない。明日からでも取り掛かるべきではないか。

 イノベーションはコラボレーションからしか生まれない。必要なのは、点在する個々の活動、個々の表現を結びつけ、一覧にしながら攪拌することである。そうすることで交流が生まれ、摩擦とともに熱が生まれる。そうした化学反応のなかから新たな創造も生まれるのに違いない。

 私はひとつのリーディング(朗読)・フェスティバルを夢想する。もちろんプロのスタッフワークによって設えられた舞台である。
 その舞台上では、わが国トップクラスの舞台俳優から役者の卵、ミュージシャン、詩人、政治家、商店主、会社の重役、新入社員、学生、学校の教室で子どもに読み聞かせをやっているような若い母親から児童書担当の図書館員、老人から文字を覚えたての小さな子どもたちまでもが一同に会して朗読し、群読や紙芝居、ドラマ・リーディングに挑戦する。
 同時に、図書館の片隅や児童館、高齢者施設、病院のホールやベッド脇、商店街の軒先や広場など、町中のいたるところで大きな輪、小さな輪ができて読み聞かせが展開され、人々が耳を傾ける。
 会議室では、朗読=リーディングの意義や実際的な技術論についてさまざまな意見が交わされ、実践され、そのなかからさらに新たなアイデアが生まれる・・・。

 そんなフェスティバルの実現に向けて、一緒にプランを練り、行動してくれる人はいないだろうか。