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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ひげ太夫に癒される

2010-06-08 | 演劇
 言葉や想いはどうすれば相手に伝わるのか、ということをいつも考える。それは、どうして伝わらないのだろうと、日々の生活の中でたびたび感じるからでもある。
 そもそもなぜ伝えることが必要なのかと開き直って思わないわけでもないのだが、少なくとも「表現」という営為に何らかの形で携わる以上、伝えること、伝わることは最低必要条件の前提と考えざるを得ない。

 声がただ大きければよいというわけではない。所謂美声がよいわけでもない。
 微かに聞こえるか聞こえないかというような小さな囁きがとてつもなく心に響くこともあるだろうし、泣き叫び続けて押し潰された喉から搾り出される擦れ声が胸に突き刺さることもある。
 昔、ある往年の青春俳優が初めて舞台に出演した時のこと、先輩の役者さんから「無理に声を張り上げる必要はないよ。むしろ小さな声で台詞を言ったほうが、お客さんのほうで聞こうとしてくれるのさ」とアドバイスされたそうだ。よい先輩ではないか。

 最近、いろいろな会合やイベントにご案内をいただいて出席することが多い。パーティ嫌いの私には苦痛以外の何ものでもないし、なぜ自分はこんなところにいるのだろうといつも思ってしまう。おまけに会費まで払わされたうえに人前で挨拶までさせられるのでは堪ったものではない。
 日頃、熟練のスピーチライターを自認し、人さまのスピーチや演説に対してあれこれと能書きを言う私ではあるが、わが身のこととなるとからきしだらしがない。
 こうした会合は主催者が変わっても招かれる側の顔ぶれはおおよそ決まり切っているものだ。
 国会議員から地方議員、地域団体の代表者、行政の長などがさまざまにスピーチする。その巧拙はそれこそ千差万別だし、みな人前でしゃべりながら、それを退屈そうに聞く聴衆から心の中で辛辣に評価されているわけだ。
 そうした状況で語られる言葉が、どれほどの意味をもってどれほど伝わり、胸に響いているのか・・・。

 ごく最近の苦い失敗談がある。ある2つの団体が共同で開催した会合があって、その一方の代表者のAさんから直接電話をいただき出席することになった。
 少しばかり複雑なのだけれど、両団体は密接な関係にあり、Bさんが代表を務める団体は、Aさんが代表となっている団体の構成団体なのである。
 私は、Aさんから声をかけられた手前、Aさん代表の団体の話題を中心に話をした。当然、その団体にはB団体も関わっているわけだからそれで構わないと思っていたのだが、後になって人づてに、あいつは向こうの団体の話ばかりして怪しからんとBさんが怒っているという話を聞いた。私がBさんたちのことをないがしろにしたと思われたのだ。
 ムズカシイものである。

 そんなこんなですっかり落ち込んでいたので、一昨日6日の日曜、気晴らしに「ひげ太夫」の公演「赤道ザクロ」を王子小劇場に観に行ったのだった。
 「ひげ太夫」は、今年の1月に舞台でご一緒した成田みわ子さんがメンバーの劇団である。以前にも紹介したことがあると思うけれど、ひげメイクをほどこした女優さんばかりが出演する個性あふれるカンパニーだ。
 おまけに舞台上では出し物師(出演者)たちが、小道具から背景の建物まで、それこそ何でもかんでも組み体操によってその身体で表現してしまうのである。
 彼女たちは瞬時にひげのおっさんから可憐な乙女や子どもに役を入れ替わるばかりか、家具や道具、山や草花、空飛ぶカモメにまで変身する。
 エンターテインメント性にあふれたその芝居は、往年の無国籍日活映画や東南アジアのカンフー映画、さらには鳥山明のアニメやゲームのストーリーまで換骨奪胎してごった煮にした味わいに満ちて、観客を楽しませることに徹することを是としている。
 小難しい社会性やテーマ性があるわけではない娯楽作品ゆえの限界性も感じつつ、私はこの集団の可能性を信じている。

 終演後、成田さんに座長の吉村やよひさんを紹介されてご挨拶をした。
作・演出から舞台美術デザイン、組み体操の振付、作詞作曲までこなす吉村さんは小柄な身体から溢れるような才能を発散している。すっかりファンになってしまった。