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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

舞踊 和のエッセンス

2011-01-09 | 雑感
 新年会にお招きいただいて顔を出す機会が多い。今日はとある舞踊関係の集まりにご招待をいただいた。日本舞踊の、といっても新舞踊あるいは歌謡舞踊と呼ばれるジャンルの皆さんである。
 この機会に舞踊の知識を少しでも頭に入れておこうとしたのだが、付け焼刃の一夜漬けではお里が知れてしまう。
 演劇史を勉強した皆さんには常識なのだろうが、「舞踊」という言葉が西洋のダンスに対応する言葉として、明治37年、坪内逍遥と福地源一郎(桜痴)が「新楽劇論」の中で和訳したものだということを今回初めて知った。お恥ずかしい限り。
 舞踊は、文字どおり「舞」と「踊り」が合体したものだが、舞踊にはもう1つ「振り」という要素がある。
 「舞」は奈良・平安の頃から舞楽、神楽、田楽など宮廷や民間での祭礼の際に奉納され、披露されるものとして発達した。
 それから200年後の鎌倉時代に猿楽となり、さらに200年後の室町時代には舞台演劇化した能楽として集大成されていった。同じように「踊り」では念仏踊り、盆踊りなどが民衆の娯楽として広まっていったのである。
 そのまた200年後の江戸開府の頃、出雲阿国によって歌舞伎が生まれたのはよく知られている。
 「振り」はその歌舞伎や人形浄瑠璃の発達によって派生したが、舞・踊・振りの3要素が融合した歌舞伎踊りへの発展は、出雲阿国からおおよそ200年後の文化・文政の頃、4世西川扇蔵やその弟子で花柳流を興した1世花柳寿輔らによってひとつの頂点を迎える。
 極めて大ざっぱなまとめだが、こうしてみると、舞踊は奈良時代以降、200年をワンサイクルとして変容・発展していったわけである。(これはかなり強引なこじつけだけれどね)
 舞踊には、日本文化のエッセンスが凝縮されているといってよいのである。

 ちなみに日本舞踊という言葉は、西洋のダンスと区別し、対比するための造語であったようだ。
 その後、坪内逍遥、小山内薫らによる演劇改良運動と相まって舞踊の改良運動も興り、大正期に新舞踊が生まれる。これに伴い、歌舞伎役者ばかりではなく、舞踊の専門家が人前で演じる、すなわち公演する形が定着し、今の隆盛に繋がっているのである。
 ちなみに今、日本舞踊には200を超える流派が存在するそうだ。

 さて、自分のことはさておき、和の文化、所作といったものが日常生活から希薄になって久しい。
 夏の花火シーズンには浴衣姿の若いカップルをよく見かけるようになったけれど、特に男子の着付けがなっていないのがさびしい。帯を腰周りではなくウェストラインに巻いているものだから、まるで子どものように見えてしまうのだ。

 先ごろ、コミックの「大奥」が映画化されてイケメンの人気男優たちが大勢出演していたけれど、江戸城の廊下を長袴をはいて歩くシーンで皆が皆、身体を左右に揺らせながら歩いていたのは見映えのよいものではなかった。あれは状態を安定させ、すり足で歩く訓練が出来ていないからなのだ。
 このように現代人の日常から消えていった和の所作は、実は目に見えないところで深い影響を及ぼしているに違いないのである。