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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「千羽鶴」を読む

2022-08-14 | 読書
読書というものは不思議なもので、むかし途中で投げ出したまま、どうしても読めなかったものが、ちょっとしたタイミングで読み直したらとても面白かったという体験は誰もが思い当たることではないだろうか。
私にとって、川端康成の「千羽鶴」がまさしくそうで、それこそ大昔、中学を卒業して高校に入学する前という中途半端な精神状態の時に読み始めたのだが、ついに読み切れずそのままになってしまっていた。

もっともこの小説をその年齢で理解しろというのがそもそも無理なことだろう。今頃になって再会できたのはかえって良かったのかも知れないのだ。

登場人物は、三谷菊治という会社勤めをしているらしい20代半ばと覚しき青年を中心として、彼を取り巻くのが、かつて菊治の父の愛人だった茶の師匠栗本ちか子であり、ちか子が仲立ちする形で紹介され、のちに菊治の妻となる令嬢ゆき子、さらにはちか子の後に父の愛人となり、父の死後、ちか子が主宰する茶会での再会後、菊治と道ならぬ関係となる太田夫人とその娘文子である。
その彼らの織りなす愛憎劇を志野と織部の茶器が静かに見つめる、というのが大まかな構成である。

愛と欲、未練と諦念の入り組んだ人間関係のなかを行き来する茶器は、何百年もの間、数多の人の手に渡り、愛されながら、人々の運命をその冷たくもあり、なまめかしくもある肌理のうえに映し出し、見つめてきた。
その茶器をある種の狂言回しとして、菊治と彼を取り巻く女たちの運命が描かれる……。

茶器は茶器そのものとして、ただそこに在ることで、それを所有し、触れる人間の懊悩や欲望をしずかに映し出す。その冷然とした光にあぶり出された自身の宿命に抗いきれない人間たち。
ある者は自ら命を絶ち、ある者は姿を消そうとし、ある者は断ち切れない思いを抱えたまま、引き裂かれた愛のはざまに沈み込んでいく。

太田夫人と娘の文子、菊治の妻となるゆき子らの姿はどこか抽象的であり、無機質な美しさを有した現実離れしたものとして描かれるのだが、そこに対置されるのが茶の師匠、ちか子である。

下世話で現世的な知恵と狡猾さを持ち、好悪や身のうちにわき起こる憎悪の感情を隠そうともせずに他人の心の中にまでずかずかと入り込んで平然としたその姿は、川端の筆によって見事なまでの実在感を与えられている。
ちか子の存在は、シテが舞う厳粛な能舞台に乱入した狂言師のような滑稽さをまとっているが、その姿が生々しい現実感を伴って描かれるほどに、彼女に翻弄されるような主人公たちの美しさはより抽象度を増すように感じられるのだ。

「千羽鶴」は5つの短篇からなり、その続編「波千鳥」は3つの短篇で構成されている。
それらは昭和24年から数年にわたっていくつかの雑誌に分散発表された作品がまとめられて長編となったもので、こうした連作形式は「雪国」や「山の音」にも共通する書き方である。
戦後のこの時期にはすでに書き下ろしで長編を発表する方法もあったはずなのだが、川端にとってはこの連作方式が体質に合ったものだったのだろうか?

それはそれとして、本作は創作ノートが盗難に遭うという不幸によって中断を余儀なくされたものとのことだ。
この先、菊治とゆき子夫婦と姿を消した文子の運命がどのように展開するのか、そしてそれを川端がどのように構想していたのか、興味は尽きない。


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