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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

離見の見

2014-06-20 | 雑感
 世阿弥の「花鏡」の中で「目前心後」あるいは「離見の見」という言葉が語られる。
 「目を前に見て(つけて)、心を後に置け」という。
 さらに「見所より見るところの風姿は、わが離見なり。しかればわが眼の見るところは、我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなわち見所同心の見なり。」と続くのだが、つまり演者=人間というものは、目前、左右までは見ることができるけれども、後姿まではなかなか見ることができない。
 しかし、自らの後姿まで見ることができなければ、自身の姿の俗なことをわきまえることもできない。観客と同じ目線から我が姿を客観的に見ることができて初めて五体相応の幽姿をなすことができるというのだ。
 人は誰しも他人の粗や欠点を見つけることは容易にできるが、自分自身を第三者の目で冷徹に見ることはなかなかできない。

 2か月ほど前の毎日新聞の余禄欄で富山の薬売りが各家庭に置いていった格言集のようなものを紹介していた。寺田スガキ著「『言葉』の置きぐすり」からの引用とのことだが、印象に残っている。

  高いつもりで低いのが教養
  低いつもりで高いのが気位
  深いつもりで浅いのが知識
  浅いつもりで深いのが欲の皮
  厚いつもりで薄いのが人情
  薄いつもりで厚いのが面の皮

  強いようで弱いのが根性
  弱いようで強いのが意地
  多いようで少ないのが分別
  少ないようで多いのが無駄

 人の振り見てわが振り直せ、という。反面教師という言葉もある。
 そんな言葉にフムフムと頷くのは誰しも身に覚えがあるからなのだ。それなのに、なかなか身を糺すことができないのは何故なのか。それが人の人たる所以なのかも知れない。
 人が道に迷うのは自分のいる場所・位置が分からないからだという。
 では、ナビゲーションシステムやアラウンドビューモニターのようなシステムがあればそれでよいのかというとそうでもない。
 自分の後姿を見たうえでなお必要なのは、何よりも透徹した批評眼なのである。それがなければ人はただ己が姿に見惚れるばかりで前に進むことなどできはしない。


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