人は日々、生の荷車を引く。
荷の中身やその価値が問題なのではない。
車に付いている社名やら、
引く者の肩書きなど、尚更問題ではない。
無名な人間が引くカラッポの荷車であれ、
無心に懸命に引いている姿だけが、真実なのである。
人生に、カラも荷も、否定も肯定も無い。
生きている、その手応えで常に満ちていれば、
余計に何かを求めようとする自分はないのだろう。
求めることが起こらず、常に足りている心…。
鴎外の「空車(むなぐるま)」は、人生の矛盾の表現であろうが、
矛盾が矛盾で無くなる境地が、自足という悟達であろう。
『高瀬舟』の同心・庄兵衛は、罪人の喜助と己との違いを、
財産の観念における桁の違いとして、相対化することで理解してみる。
だが、それでも気持ちが割り切れず、こんな感想を漏らす。
「不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。」
この文句は『妄想』という作品中に引用された、
ゲーテの次の言葉にも照応している。
「いかにして人は己を知ることを得べきか。
省察を以てしては決して能わざらん。
されど行為を以てしては或は能くせむ。
汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。
汝の義務とは何ぞ。日の要求なり」
鴎外は、この引用の後に次のように付け加えている。
「日の要求に応じて能事畢(おわ)るとするには
足ることを知らなくてはならない。
足ることを知るということが、自分には出来ない。
自分は永遠なる不平家である。」
これが齢五十に近い鴎外の言葉である。厳しい自己批評である。
この試論を記す私にとっても、これ以上先に進むに、言葉が見つからない。
未だに自分が生きられていない境位について、凡愚が何をか況んやである。
「日の要求に応じて能事畢(おわ)る。」
この述志の句に、私は、ある詩人の、詩の書き出しの数行を想い出す。
「私は願ふ。
陽の照る麦畑に立って眺めてゐる
一年の課役を果したあとの老人でありたいと」
(三好豊一郎「希望」から引用。『荒地詩集 1951』国文社所収)
『妄想』に登場する白髪の老人は、松林の間の小さな家で、
大きな目を見開いたまま、遠い遠い海と空とを眺めている。
人生の課役を果たした後の老人のように…。
明るい陽射しの中、波や風の音と交じわって、
老人は、静かに立って眺めている。
明るい砂浜、
瞳の中の遠い海と空、
波の音、
風の音、
揺れる松林、
小さな家…。
これらは風景でなく、
その全てが、鴎外の真澄な心であるような気がする。(了)
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荷の中身やその価値が問題なのではない。
車に付いている社名やら、
引く者の肩書きなど、尚更問題ではない。
無名な人間が引くカラッポの荷車であれ、
無心に懸命に引いている姿だけが、真実なのである。
人生に、カラも荷も、否定も肯定も無い。
生きている、その手応えで常に満ちていれば、
余計に何かを求めようとする自分はないのだろう。
求めることが起こらず、常に足りている心…。
鴎外の「空車(むなぐるま)」は、人生の矛盾の表現であろうが、
矛盾が矛盾で無くなる境地が、自足という悟達であろう。
『高瀬舟』の同心・庄兵衛は、罪人の喜助と己との違いを、
財産の観念における桁の違いとして、相対化することで理解してみる。
だが、それでも気持ちが割り切れず、こんな感想を漏らす。
「不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。」
この文句は『妄想』という作品中に引用された、
ゲーテの次の言葉にも照応している。
「いかにして人は己を知ることを得べきか。
省察を以てしては決して能わざらん。
されど行為を以てしては或は能くせむ。
汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。
汝の義務とは何ぞ。日の要求なり」
鴎外は、この引用の後に次のように付け加えている。
「日の要求に応じて能事畢(おわ)るとするには
足ることを知らなくてはならない。
足ることを知るということが、自分には出来ない。
自分は永遠なる不平家である。」
これが齢五十に近い鴎外の言葉である。厳しい自己批評である。
この試論を記す私にとっても、これ以上先に進むに、言葉が見つからない。
未だに自分が生きられていない境位について、凡愚が何をか況んやである。
「日の要求に応じて能事畢(おわ)る。」
この述志の句に、私は、ある詩人の、詩の書き出しの数行を想い出す。
「私は願ふ。
陽の照る麦畑に立って眺めてゐる
一年の課役を果したあとの老人でありたいと」
(三好豊一郎「希望」から引用。『荒地詩集 1951』国文社所収)
『妄想』に登場する白髪の老人は、松林の間の小さな家で、
大きな目を見開いたまま、遠い遠い海と空とを眺めている。
人生の課役を果たした後の老人のように…。
明るい陽射しの中、波や風の音と交じわって、
老人は、静かに立って眺めている。
明るい砂浜、
瞳の中の遠い海と空、
波の音、
風の音、
揺れる松林、
小さな家…。
これらは風景でなく、
その全てが、鴎外の真澄な心であるような気がする。(了)
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