脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

安吾小論(5)

2007年11月15日 12時55分23秒 | 読書・鑑賞雑感
ふるさと。
人はこの言葉に懐かしみの情景を思い浮かべる。
だが、人間の「ふるさと」とは、何だろうか?

安吾のいう「ふるさと」も、戦争や破壊だのとのみ、
背中合わせに考えるべきものではないのだろう。
それは誰もが「直立二足歩行」を始めて以来、
自然と失われざるを得ない風景だったのだ。

だが時に、誰の平凡な日常にも、それへの隙間がフッと開くことがある。
それは、闇の中で見出され、光の中で見失われる。
眼をつぶらなければ見えないもの。瞼の裏にあるもの。
夢のように儚くて、いつも現在からは遠くにある。

けれど、愛情が自然と体中から溢れ出し、
お互いがそれで暖まるような、温もりの場所。
だがそれでいて、捕らえる端から次々と消えてしまうような、
接近と同時に遠ざかり、逃げ水のようにいつも向こう側に煌めいているものだ。

向こうが過去なのか、未来なのかは分からない。
でも何か、ひたすら暖かいものが自分へと起き上がってきて、
心が鼓動していて、それのみが真実を刻んでいる場所なのだ。

私を包む、優しく柔らかい闇。
そこは、誰もがかつて<個体>へと
排除を受けた母の胎内のことなのか。
生と記すよりも、立心偏の“性”である。

<性>とは本来、そのように我々の実存を包み込みつつ、
秘められた場所、戻れない遠い場所のことなのではないのだろうか。

       *       *       *


商店街の男たちも、安アパートの女たちも会社員も芸術家も、
軍国主義がうるさかろうと治安維持法が何であろうと、
さらに敗戦でそれらがすっかり消し去られようと、
この日本において、いや人間においては何も変わらないのだ。

街の風景は一面の焼け野原に変わっても、人の風景は先から同じだ。
良かれ悪しかれどこまでも変わらない“人”という頑強な事実。
絶望をひっくり返してみたら、心の風向きひとつで、
裏には希望が貼り付いていたりする。
全的肯定へと達する止揚云々と言わずとも、命を生きる活動、
すなわち“生活”の文字でよい。『白痴』は語る。

「ああ日本は敗ける。
 泥人形のくずれるように同胞たちがバタバタ倒れ、
 吹きあげるコンクリートや煉瓦の屑と一緒くたに
 無数の脚だの首だの腕だの舞いあがり、
 木も建物も何もない平な墓地になってしまう。

 どこへ逃げ、どの穴へ追いつめられ、
 どこで穴もろとも吹きとばされてしまうのだか、夢のような、
 けれどもそれはもし生き残ることができたら、
 その新鮮な再生のために、そして全然予測のつかない新世界、
 石屑だらけの野原の上の生活のために、…」
                           (坂口安吾『白痴』)

焼け野原だから、希望があるというのではない。
希望があるから殊更に生きようとするのでもない。
“生きている”と自脈が私を打つから、生きるのだ。
体の中の、この小さな泉こそ、
誰が誰に対しても侵してはならない、純粋で尊い希望なのだ。(続)

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