木めぐり像めぐり

気に入った木、気になる像などを紹介していこうと思います。

東福寺のイブキ

2013-03-24 14:16:03 | 

 ガイドブックをみたら、京都で一番人が訪れる場所は、伏見稲荷と書いてあったので行くことにしました。京都駅から奈良線で2駅目にある稲荷駅で下車すると、すぐそばに伏見稲荷の大きな鳥居があり、京都駅からこんな近くにあるとは、知りませんでした。さすが観光客はおおく、数百の朱色の鳥居のトンネルをくぐる道は、とてもありがたい、霊験あらかたな気がします。そんな道が、233mの稲荷山まで続いており、約1時間の道のりです。さすがに、山頂まで登る人は少ないですが、ハイキング気分の味わえる山道です。四つ辻という地点で、東福寺にでる横道がありましたので、そこを歩いて東福寺に出ました。山道から、高級住宅街の中をぬけると東福寺がありました。そこに、写真のイブキがありました。説明によると「東福寺は、鎌倉時代の中頃、九条道家により創建された古刹で、開山には聖一国師が迎えられました。この木は高さ16.5m、胸高周囲3.36m、枝張り東西10.5m、南北8m。江戸時代中頃、1780に刊行された『都名所図会』には『円柏(イブキ)の古樹は開山国師、宋国より携え来る』という記載があります。土佐光高によって描かれた東福寺境内図にも古樹が描かれています。
 本樹の雄大な姿は、明治年間の仏殿焼失の際に損傷を受けたらしく、主幹の北側に多く見られる枝の切断のあとはその時の処置によるもののようです。」となっていました。この木の後ろ側は、幹の表皮はなくなっており、痛ましい姿になっています。
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鳥取城跡を巡るハイキング(続き)、長田神社のケヤキ

2013-03-20 14:21:11 | 

 仁風閣から久松山を登り、長田神社に降りてきて、その神社にありましたケヤキの写真です。
説明によると「樹齢250年以上、樹高30m(幹まわり4.4m) 長田神社参道の左右になあるタラヨウと共に、国有林であったこの土地に自生する大木で、ケヤキ特有の扇形の樹形が美しい。このケヤキは、神社の移転した大正13年当時は、現在より1mくらい低い傾斜地にあったが、幹の周囲に石垣を築き、少しずつ埋められ平地にされた。」となっていました。
 こじんまりとした神社ですが、雰囲気は長い歴史を感じさせるなかなかいい感じがする場所です。
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鳥取城跡を巡るハイキング

2013-03-18 14:50:24 | 散歩

 半日かけて、鳥取砂丘を見学し、次に鳥取駅行きのバスで西町で下車、仁風閣を見学して、鳥取城跡をハイキングしました。久松山(263m)の山頂に仁風閣から1時間弱で着きます。その山頂の本丸の天主櫓跡から1枚目の写真を撮りました。黄土色した海岸線のところが鳥取砂丘です。
そこから、長田神社、太閤ヶ平へのハイキングコースがあります。楽な長田神社の道を歩き30分ほどで着きました。そこから鳥取駅まで徒歩30分ほどです。2枚目の写真は、長田神社に下る途中にあった巨木です。ねじれ具合がきれいで、山の主のような感じがして写真をとりました。
鳥取城の説明によると「戦国時代中頃(天文年間)に、久松城の自然地形を利用した山城として築かれたことに始まる。以後、因幡地方の政治拠点となり、近世において因幡・伯耆の二国の支配拠点として長い間存続した。このため、鳥取城あとには、日本城郭史上でも類例の少ない城跡である。このことから、学術的・歴史的にも貴重な城跡として昭和32年に国の史跡に指定された。
 山頂を中心とした山上ノ丸は、久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲っている。本丸には、天守櫓、車井戸、多門櫓、月見櫓等を設けていた。天守櫓は元禄5年(1692)に落雷のため焼失してしまい、再建されることはなかったが、その他の建物は明治時代の初めまで残っていた。~」となっていました。
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鳥取城跡にある仁風閣(じんぷうかく)

2013-03-17 14:57:50 | 散歩

 この仁風閣は、明治40年5月、鳥取池田家の大14代当主池田仲博侯爵が、宮内省匠頭であった片山東熊博士に依頼し、工部大学校で片山博士の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵工学士が監督し、わずか8ヶ月で完成したそうです。建築費は約4万4千円、当時の市役所の年間予算は5万円、完成と同時に仁風閣は、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰地方行啓の宿舎として使用されました。このとき随行した海軍大将東郷平八郎の命名されました。
 大正年間に入って、市の公会堂、県の迎賓館など使用、昭和18年鳥取震災の際、屋上の煙突が折損落下し、スレート屋根に葺き替えられ、昭和24年から47年まで、県立科学博物館として使用され、昭和48年県立博物館が別に造られたことにともない、県から鳥取市に譲渡され昭和49年から3年間、約2億円で修理復元を行い、昭和51年、文化の日から公開されました。」
 この建築物をみて、ジョサイヤ・コンドルの建てた東京都上野にある岩崎邸(2006.7.31の私のブログの参照)、桑名市の六華苑(2011.4.2のブログ参照)と似ていると思いませんか。設計した片山博士は、ジョサイヤ・コンドルの弟子だからです。皇太子の行啓に間に合わせるために建築期間が8ヶ月という短期間で建てざるをえなかったのかも知れません。そのためか、師匠の立てた建築物と比較すると、はるかに師匠のほうがすぐれていると思いました。2枚目の写真は、鳥取城跡のなかにある二ノ丸跡から撮りました。
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旧大社駅本屋(重要文化財)

2013-03-14 13:44:28 | その他

 出雲大社から歩いて30分ぐらいのところにあり、ほとんど観光客は来ないようで、私一人で見学しました。十円玉に描かれている平等院鳳凰堂や国会議事堂のような対称的な建造物で、公共的かつ権威的な感じがよく出ている気がします。説明によると
「国鉄大社線は山陰線の支線として、明治45年(1912)に開通しましたが、そのときの駅舎は今の半分ほどの大きさでした。大正2年(1923)、出雲大社神苑から神門通りが貫通し、出雲大社から駅までを直結するルートができました。一方、国鉄山陰線は大正12年(1923)に京都から益田までが全通し、出雲大社への参拝者も爆発的に増え、駅舎も手狭になりました。そこで出雲大社の表玄関としてふさわしい建物へ改築しようと、同年9月に起工、、12月に上棟式を行い、大正13年(1924)2月13日ひ竣工したのがこの駅舎です。~
 この大社駅開業により、出雲大社への参拝客は増え続け、昭和35年(1960)には、1日2000人を超える人が利用していました。しかし、その後は自動車の発達により乗降客が減少し、平成2年(1990)の大社線廃止により大社駅はその使命を終えることとなりました。」となっています。
 駅舎内もなかなかいい感じですね。
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出雲大社駅に展示された古い車両内部

2013-03-13 11:43:55 | その他

 出雲大社駅の横に古い車両が展示されており、その内部に入れるようになっていました。その内部を見学したとき、幸せな感じがしました。床、窓枠、座席、木製のものでおおわれた空間は、とても落ち着いた気持ちのいい感じがしました。現代の金属とプラスチックでおおわれた機能性と合理性を追求した空間との違いがはっきりと感じられる。大家族で一家団欒をすごせた、漫画「サザエさん」のような幸せな時代を感じさせる空間がここにあるように感じます。
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