木めぐり像めぐり

気に入った木、気になる像などを紹介していこうと思います。

横手の旧日新館

2009-11-28 10:23:55 | 散歩

 秋田駒ケ岳を登りにいったのですが、朝早く目覚め、宿の窓から外を眺めれば、雨。雨の中では山登りしない主義なので、ここから近くの観光地を散策することにしました。そこで、いま焼きそばで注目を浴びている横手に行くことにしました。横手市は秋田県第2位の大きな都市で、都会の駅といった感じです。構内にはたくさんの焼きそば店を紹介する掲示板があり、近くの名所を紹介するパンフレットがありました。でも、観光地という雰囲気はありません。このパンフレットで、横手城跡と旧日新館が名所のようです。駅から歩いて30分、街の雰囲気を楽しみながら、旧日新館を訪ねました。
 「旧日新館は、明治35年(1902)小坂亀松が横手中学(現在の横手高校)の英語教師として赴任したアメリカ人チャールス=チャプリンの住居として建てたもので、大工棟梁は藤村初五郎である。
 この建物は、木造二階建・建築面積98.0平方メートルである。屋根は寄棟造・柾板葺(現在は鉄板葺)で、棟端部などに鬼板をあげていた。外板は下見板張りで、素木造の簡潔な住宅である。北側正面の玄関・バルコニーの独特な柱頭飾りや上げ下げ窓の上部の櫛形、下部の繰り形状の飾りなど、デザインがすぐれている。内部は一・二階とも中央に廊下をとり、一階は応接室・食堂などとし、二階は寝室・書斎などの私的な部屋として利用された。狭い屋根裏にもかかわらず、小屋組の中心部には洋式の工法を取り入れている
この建物は、県内に残る明治時代唯一の木造洋風住宅で、秋田県の近代教育・宗教・文化史上重要な遺構である。」と、説明されていました。
写真の右側、一階の屋根から二階の屋根へ平行の二本の棒が写っていますが、あれは雪おろしのための梯子のようです。
ところで、1900年ころは、夏目漱石や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英語教師として地方へ赴任しています。あのころは、日本中が英語教育に熱心だったのかもしれませんね。今でも英語教育には熱心ですが……。
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平草のイヌツゲ(皆野町指定記念物)

2009-11-18 18:52:47 | 


 秩父鉄道の親鼻駅から釜伏峠を経て中間平緑地公園を散策し、波久礼駅まで歩きました。ほとんど、舗装された林道を歩くコースですが、峠付近は立派なカエデがあり、中間平緑地公園はカエデがたくさん植えられているので、紅葉の名所のようです。
上の写真は、標高500mの地点、後方の建物は1軒だけある民宿で、その庭にあるイヌツゲです。ここからの下界の景色はすばらしく、泊ってみたい気にさせるほどです。このイヌツゲの後方にキリシマツツジがあり、写真の左下にツツジの枝が張り出しているのが見え、この木も指定記念物のようです。その説明板にはキリシマツツジの解説もありましたが、その部分は省略しています。
「イヌツゲはモチノキ科の常緑低木ですが、ときに高木となります。この木の根まわり2.7m、高さ5m、枝張り6mの巨木です。雌雄異株でこの木は雄株です。5月上旬に開花します。
 樹齢はわかりませんが、200年を越えると推測されます。庭木として田島家の長い歴史の証しとともに、江戸時代『寄居村ヨリ熊谷二カカリ中山道江戸往来ナリ』といわれた釜伏越えの街道(熊谷みち)の山間の茶屋の木として旅人や村の歴史を見つめてきた古木です。」となっています。
 イヌツゲがこんなに太くどっしりした木になるのを見たことがないので、驚きます。江戸時代からつづく通行要所のシンボルとして生き続けている。なんか、うれしくなりますね。キリシマツツジも5月上旬開花するそうです。
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発光路、下手のカヤ

2009-11-03 18:42:58 | 

 発光路へは、新鹿沼からバスで行けますが、本数がすくなく、とても不便な場所です。バスは小学生の通学のために動いているようです。ですから、一般の利用には向いていない時間帯を走っているので、訪れるのがむずかしい。11月からは、バスの運行時間がかわり、さらに不便になりました。タクシーか自家用車じゃないと行けない場所です。
 発光路へは、氷室山に登りに行くために出かけました。発光路で降りて、少し歩くとそこに、写真のカヤがありました。説明板には、
「下手のカヤ 下手とは、斉藤泰典さん宅の屋号で、カヤの木は、斉藤家屋敷の裏側にあり、樹齢約850年、目通り周囲4.3m、樹高13.0mで斉藤家の先祖が植えたもので、この地方ではまれに見る古木です。」と、ありました。
 平安から鎌倉時代に変わる、激動の時代に植えられたのか。この場所はどれほどの人々が居住し、何を生活の糧として生きてきたのだろう。米はとれない、狩猟生活が主な生業かもしれない。斉藤家は今何代目なのだろうか、だいたい20年で一代だから、42代目ぐらいかもしれない。そんな思いが湧き起こった。だいたい、現代人の常識で昔のことを考えても、的外れの捉え方をしてしまう、歴史を推理するのは面白いが、
だいたい間違っていると思う。私が中学、高校で学んだ歴史が、今かなり違っているところがある。それを思うと、あの歴史はなんだったのだと思ってしまう。
歴史なんてものは、勝者の物語であり、勝者の正義を正当化する物語みたいなもの、そこに何を学べばいいのだろうか。人間の権力欲のすさまじさ、貪欲さ、愚かさを知ることかもしれない。
 話が横道にそれてしまいました。この発光路という地名は、想像力を刺激しますね、路が光っている。どんな場所だろう、どうして、路が光ることができるのだろうか、私なりに考えてみました。昔はここは、滑々した岩だらけの路が続いていたのかもしれない、それが太陽の光を反射させて輝き、発光路という地名ができたのかもしれない。よく、鏡岩と呼ばれるものがあるが、滑々した岩で、少し光を反射できる、もしかして月ぐらいの光の反射率なのだろうか。
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