木めぐり像めぐり

気に入った木、気になる像などを紹介していこうと思います。

磨墨岩と相馬山の石像

2018-10-06 15:48:59 | 


 榛名湖から天目山、七曲峠、磨墨(するす)峠、相馬山、ヤセオネ峠と上ったり、下ったりとアップダウンの多い道を歩きました。一枚目の写真は磨墨岩の上の立てられた烏天狗の像、2枚目は相馬山の山頂にある黒髪神社の像です。素朴な感じの像なので写真に撮りました。
 黒髪神社の説明文には「当神社は往古より、北はヤセオネ峠を伊香保境とし、南は牛王橋を持って室田境とする南北約10㎞。この間東西約4㎞を隔てて聳える両連峰に囲まれる広大なる地域の神領を有し、延喜式内の古社たる榛名神社の末社で石祠でありました。勧請の年月は不詳ですが、高崎・前橋方面を始め、遠く関東平野の村々より榛名山を望む時、厳然として屹立した第二峰相馬岳、ここより立ち昇る黒雲は忽ちにして雷鳴を発し、慈雨を下し、豊かな稔を約束してくれる闇龗神(水神=龍神)の住まわれる処の信仰は、この御神名が訛ってのもとともいわれる神社名からも伺われ、随分古い時代から祭祀が行われて居たものと思われます。」となっていました
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日光、最勝寺墓地の石仏

2017-06-21 16:02:41 | 

 東武日光駅から徒歩10分ほどのところにある最勝寺の墓地に、興味深い石仏がたくさんありました。そこには、稲荷川水難供養塔があり、寛文2年〈1662年〉6月、稲荷川の大洪水により、当時、山内東側の稲荷川沿いに集落していた稲荷町が一瞬にして水に呑まれ、140余人が溺死したと記録されている。
 その供養のためにいくつかの石仏があり、その一つを写真に撮りました。これ以外にお堂に安置されていた閻魔大王、閻魔十王、奪衣婆、奪衣翁、書記官2体の15体もあり、なかなか趣のある場所でした。
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海の讃歌(1963年の作品)

2017-02-21 14:20:19 | 

 熱海梅園に行ったときに、その庭園内に澤田政廣記念美術館があり、その入り口に展示されていた像です。バランスが不安定な感じですが、ヤジロベイのような構造にして、安定感を与えている。そこが面白く感じました。 こじんまりした美術館ですが、見ごたえのある作品がたくさんありました。
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フランシスコ・ザビエル像

2016-12-18 13:28:47 | 

 大分駅前にあるフランシスコ・ザビエル像です。説明によると
「1506年、イベリア半島のナバラ王国ザビエル城(現スペイン)で生まれました。 
イエスズ会創設メンバーの一人であり、アジア各地でキリスト教を広める中、日本の布教を決意します。
 1548年8月、鹿児島に上陸し、その後、平戸、山口、堺をへて京都に赴きますが、京都で思うように布教ができず、再び山口へ戻ります。
 1551年9月、大友義鎮(宗麟)公の招きにより豊後府内(現大分市)を訪れ、領内でのキリスト教布教の許可を得ます。ザビエルは府内に二か月滞在し、日本を離れますが、これ以降、府内は日本におけるキリスト教布教の拠点となり、ポルトガル商船や中国船が来航し、南蛮貿易が活発に行われました。その結果、府内は全国に先駆けて南蛮文化が目覚ましく開花し、東洋と西洋の文化が交わる国際貿易都市として繁栄しました。」
 なかなか、面白い内容ですね。大分が南蛮貿易で栄えたなんて知りませんでした。
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別府駅にある「あぶらや・くまはち」の像

2016-12-14 15:17:58 | 

 別府駅にとてもユーモラスな像がありました。説明によると
 「1863年、愛媛県宇和島の米問屋にうまれる。小さい時から働き者で有名だった。
 30歳のとき大阪に出て、米の相場で成功し、巨万の富をてにする。つけられたアダ名が”油屋将軍”
 34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。
 3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。
 46歳のころ、別府温泉へ移り住み、ホテルを経営しはじめた。それがやがて、お金持ちを迎える一流ホテルに成長する。
 アメリカで目にしたスケールの大きな観光地づくりを実践。大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、”山は富士 海は瀬戸内海 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげ立てたり。当時はだれも思いつかないような奇抜なアイデアをつぎつぎに実行した。
 美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめて作ったのもこの人である。”地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。
 湯布院を観光地として開発したのもこの人だった。当時描いていた観光プランは別府-由布院-
久住高原-飯田高原-阿蘇-長崎をむすんで道路をつくるという、九州全体を視野に入れたものだった。
 1935年、別府市で死去、73歳だった。くまはちがだいた”ここを世界の観光地にしよう”という夢は、今もこの町のあちこちに生きて息づいている」
 となっていました。
 
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石廊崎と石鎚山登山口にあった役行者像

2016-01-17 14:09:39 | 

 伊豆の石廊崎の遊覧船乗り場の入り口に、役行者像が立っていました。今までいくつも役行者像をみてきましたが、立ち姿の像は初めてです。座っている姿が正式な役行者像だと思っていましたので、工夫を凝らして立ち姿になったのでしょう。
2枚目の写真は石鎚山登山口にあった役行者像です。これは顔にひげがないので、いつも見るのと違います。
 このブログの2011年12月19日、日光輪王寺行者堂の像が一般的な役行者像です。見比べてください。この像が今まで見た中での最高の役行者像だと思います。
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黒姫の一茶像

2015-10-09 09:41:08 | 

 黒姫山に登るために、黒姫駅を下車、時間があったので、黒姫駅周辺を散策したところ、
一茶の生誕地であることを知りました。
 左の写真は、一茶旧宅跡の近くにあったもの、右は墓所の敷地にあったものです。
 小林一茶旧宅跡にあった説明は
「俳人小林一茶は、1763(宝暦13)年柏原にうまれ、15歳で江戸に出て葛飾派の俳人となりました。30歳から6年余にわたり、俳諧修行のために関西。四国、九州を廻りました。その後、再び江戸にもどり、夏目成美に師事し、房総地方などを巡回する漂泊の生活を続けました。
 50歳で帰郷した一茶は、父の遺言により家屋敷や田畑を弟とわけました。屋敷の北半分を一茶、南側を弟弥兵衛のものとなり、間口9間の家を仕切って暮らしました。他に、一茶は間口3間半、奥行2間2尺の土蔵を譲りうけました。52歳でようやく結婚し、4人の子どもをもうけましたが、次々となくなり妻にも先立たれました。その上、宿場の大火で類焼し、1827(文政10)年11月19日、焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じました。一茶没後、後妻との間に女子が生まれ、一茶家を今に伝えています。……」
 何かさびしい終わり方ですね。
 西行、芭蕉、一茶、山頭火、牧水と漂泊しながら詩をつくる伝統があるみたいですね。しかし、現代は通信・交通機関が発達していて、漂泊するなんてことはできない状況ですね。
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米原駅前にある車早船の模型

2015-05-06 14:28:57 | 

 米原駅前はどんな感じのなのか、見物しました。そこに、写真に撮った船の模型がありました。説明によると、「米原湊は、ここ米原駅付近にありました。慶長8年(1603)、北村源十郎が琵琶湖と入江内湖を結び、堀を開削して湊を開きました。美濃方面の物資や人を大津湊へ運ぶ中継、また京・大阪と北陸を結ぶ湖上交通の中継の湊で、宿場としても栄えました。
 天保14年(1843)には丸木船30、押切早船7、艜船(ひらたふね)15と米原湊で開発された車早船(写真の模型)があり、明治始めには蒸気船も運航していましたが、鉄道の開通によりその役目を終えました。」となって いました。
  ウィキペディアで調べたら、 艜船は、平田船、平駄船、比良太舟ともかかれ、主に河川で人や荷物を運ぶ船だそうです。また、車早船については、滋賀大学による「米原湊の車早船について」の論文がありました。船の外輪は人力で回す構造だそうです。面白い形の船だと思います。
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歴史資料センター黎明館にあった像、田の神と木喰仏について

2015-03-18 20:09:20 | 

 写真は、鹿児島、鶴丸城跡にある黎明館の野外展示場にあった田の神の像です。一目見て、なんて楽しい感じのする像だと思いました。田の神は4体展示されていたのですが、そのうちの2体を写真に撮りました。左側の写真の台座にあった説明は「郡山町茄子田の田の神 宝暦3年(1753年作) 模刻松田龍哲」となっていました。このほのぼのとした像が田んぼの中に立っている姿を想像してみてほしい。このころの人々は、きっと平和で和やかな生活をしていたのだろうと思ってしまう。これら田の神は、鹿児島、宮崎に分布しているそうです。
 ところで、この像を見て、遊行僧「木喰」が作ったのではないかと感じ、。木喰仏の画像検索で見てほしい。この微笑みは、木喰仏とそっくりだと感じると思う。木喰について調べたらた、木喰(1718~1810年)は、1773年から全国を巡りはじめ、宮崎県には7年間も留まっており、仏像制作は1778年頃から始めている。これらの田の神を見て、仏像を作り始めたのではないだろうか。
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岩宿文化資料館のマンモス象の住居

2015-02-18 10:45:59 | 

入口に 岩宿資料館の庭に面白い建造物があったので写真の撮りました。説明によると、
 「ウクライナ共和国 メジチリ遺跡 約2万年前 直径約6m(1号住居跡、約75%縮小)
 メジチリ遺跡では、マンモス象の骨を骨組みに使った住居跡が5軒発見された。そのうち1号住居は、入口に大きな牙(切歯)2本を渡し、385個もの多くの骨を組み合わせたしっかりしたものであった。なお、住居の屋根は、動物の皮等で覆われていたものと考えられる。」と、なっていました。
とても美しく組み合わせてできた建造物だと思いました。これだけのものをくみ上げられる感性は、近代人の感性よりも優れているのではないかと思ってしまいます。限られた材料の中で、食料のマンモス象の骨を利用して住居をつくる。映画「2001年宇宙の旅」には、猿人が、骨を握って武器として利用しているシーンがありました。骨はとても利用価値のある物だったのでしょうね。
下部の壁面のU字形の骨は、マンモスの下あごの部分です。
 
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