俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

顔(2)

2015-03-20 10:18:06 | Weblog
 日本人は中国人も韓国人もモンゴル人も日本人と同じような顔をしていると思う。しかし彼らはしばしばお互いを見分ける。これは日本人が雑種民族だからだ。中国人や韓国人やモンゴル人のような顔の人が周囲に大勢いるからこれらの外国人が日本人のように見える。
 今はそうではなかろうが、かつて日本人は黒人の顔を殆んど見分けられなかった。今でも西洋人の多くは東アジア人を見分けられないのではないだろうか。
 実は、私は就職早々の頃、周囲の人の顔を覚えるのに苦労した。それまで不自由に感じたことなど無かっただけになぜそんなことになったのか不思議だった。あとになってから謎が解けた。従来は同世代内での付き合いが大半だったから同世代の顔の認識力ばかりが高まって異世代の顔に馴染んでいなかったからだった。
 元々人間の顔はそんなに違わない。体型の違いと比べれば微妙なものだ。それにも拘わらず人は体型よりも顔の違いに敏感だ。先天的に顔の認識力が高く生活の中で更に強化されるからだろう。
 オジさんになるとアイドルが見分けられなくなると昔から言われている。これも生活上で会う人とのギャップが大きいからだ。最近は芸能人の低年齢化が進んでいるから昔よりはオジさんの識別力も高まっているかも知れない。
 顔の良し悪しはかなり微妙なバランスに依存している。標準からほんの少し外れることは個性的魅力になるが外れ過ぎれば醜くなる。それが魅力になるか欠点になるかは極めて微妙だ。
 40歳を過ぎれば人は自分の顔に責任があると言うが、明らかな悪人顔以外は本人の責任とは言い難い。好悪の印象はかなり主観的なものだ。むしろ体型にこそ責任を負うべきだろう。手足の長さは本人の責任ではなかろうが、肥満や痩せ過ぎや崩れた体型は大半が本人の責任だろう。

少年法

2015-03-20 09:50:13 | Weblog
 権利と義務は本来パラレルであるべきだろう。権利が拡大するなら同時に義務も責任も重くなる。近々、選挙権が18歳に引き下げられることになったが、今のところ少年法改正の予定は無いようだ。朝日新聞の世論調査によると少年法の対象年齢を「18歳未満に引き下げたほうがよい」と答えた人が81%を占めたそうだ。
 私は20歳のままのほうが良いと思う。少年法の目的は未熟な者に更生の機会を与えることだからだ。しかし更生の可能性が低い凶悪犯にまで少年法によって保護する必要は無い。万引などの軽微な犯罪であれば処罰よりも更生を優先すべきだが、殺人などの重犯罪であれば一般の刑事犯と同等に扱われるべきだろう。実際に16歳以上であれば刑事犯の対象になることが少なくない。
 朝日新聞の世論調査は設問に問題がある。少年法の対象年齢を「18歳未満に引き下げたほうがよい」かと「20歳未満のままでよい」かだけが掲げられているが「20歳未満のままで凶悪犯罪は少年法による保護対象外とする」などは考慮されていない。多分81%を占める引き下げ賛成者の本音もこれに近いだろう。これでは世論操作だ。18歳の高校生が日常の喧嘩で同級生に怪我をさせたとしても、顔と名前を公表して社会的制裁を加える必要などあるまい。更生の機会が与えられるべきだろう。
 私は「白か黒か」の分かり易い議論を好まない。単純化すればするほど極端な例によって歪められ易い。18歳の少年による凶悪な犯罪があるという理由だけで対象年齢を見直す必要などあるまい。少年による非行の大半は窃盗(多くは万引)と暴行・傷害(つまり喧嘩)だ。ごく一部に過ぎない凶悪犯罪に対する怒りを18歳以上の全員に向けるべきではない。そのトバッチリで更生の機会が失われる。ごく稀な例外である凶悪犯罪に対応できるように法律を整備すれば済むことであって対象年齢を見直す必要は無かろう。
 18歳の凶悪犯に対応するために対象年齢を引き下げれば圧倒的多数を占める軽犯罪者まで大人として裁かれて前科を背負わされる。18歳の少年少女が少年法による保護を受けられなくなることなど国民は望んでいないだろう。
 私は二者択一が大嫌いだ。かのルーピー鳩山氏はロシアによるクリミア併合を「民主的に決められた」として肯定しているがあの投票での選択肢を知った上での発言なのだろうか?選択肢は「ロシア編入」か「1992年憲法の復活」かの2つしか無い。1992年憲法とはクリミアが分離独立し易い旧憲法のことであり実質的に「クリミアの独立」という意味だ。「現状維持」という選択肢は初めから論外にされている。こんな偏った選択肢しか設けないことが民主的な手続きと言えるのだろうか。これは中国共産党が香港に押し付けた贋物の普通選挙と同じ紛い物だ。

ベター

2015-03-18 10:17:14 | Weblog
 正解とは100%正しい答のことだ。試験ではそれが求められる。しかし現実社会においてそれは殆んどあり得ない。無数の解があり得るがどれ1つとして正解とは言えない。どんな改善であっても必ず改悪を伴うものだ。立場が違えば利害も異なるのだから、99%の人の利益になることは1%の人の不利益に繋がる。仮に100%の人に利益をもたらすものであっても利益の差が生じるから正解にはならない。
 減税が典型例だ。減税は常に増税を伴う。総ての人に対する減税があれば公共サービスが削減されることになるだろう。結局、誰かの利益を削って多数者の利益を拡大するしか無い。最大多数の最大幸福を1つの理想とせざるを得まい。
 改革は常に痛みを伴う。だから既得権益のある人は改革に反対する。彼らは改革によって生じる問題を針小棒大に主張して封じ込めようとする。お互いの利害だけが争われるのであれば議論によって解決することは殆んど不可能だ。
 改革は大抵、強権的に行われる。既得権益にしがみ着こうとする人を切り捨てることによって初めて改革を断行できる。しかしこの手法は軋轢を生む。国民同士での対立を招く。
 一気に解決するのではなく少しずつ改善すべきだと私は考える。改革をしようとすれば利害対立を生むが、改善であれば妥協の余地がある。一気にベストを狙わずにベターを積み重ねて、時には3歩進んで2歩下がっても構わない。少しでも改善できるならそれで良かろう。ベストは理想論に過ぎず現実的ではない。
 改善を拒むのは理想論だ。理想を説く者は改善を中途半端と非難する。しかしそれが招くのは現状維持でしか無い。理想論と理想論がぶつかれば1歩も前進できなくなる。普天間の基地問題はその典型例だ。「最低でも県外」は理想としては正しい。しかしアメリカが県外移設を認めなければ世界一危険と言われる基地が現状のまま放置されることになる。
 正解はあり得ないがより良い答は常にある。直進が難しければジグザグに進んでも構わない。無駄なようでもそれが唯一可能な改善策だろう。ベストと比べればベターは物足りない。しかしsecond bestやthird bestが可能であればそれを見送るべきではなかろう。

心理療法士

2015-03-18 09:42:34 | Weblog
 心を病む人が少なくないがそれを治療するための仕組みはかなり脆弱だ。医療体制そのものが、医学系の精神医学と心理学系の心理療法に分裂している。症状を緩和する薬が多数開発されたこともあり最近では精神医学のほうが優勢だが、これは対症療法に過ぎず原因が放置されてしまう。病気の原因を無視して抗鬱剤などによって症状の緩和を図ることは治療ではない。これでは酒を飲んで憂さ晴らしをすることと大差は無い。
 心理療法の側にも大きな問題がある。大学で学んだだけでカウンセリングが可能になるものだろうか。カウンセリングを通じて原因に迫る際、欠かせないのは生活上での豊富な経験であり彼らはこれを持ち合わせていない。社会経験の乏しい彼らにはセクハラやパワハラですら理解できまい。心理療法士(セラピスト)の質の低さが精神医学の暴走を招いてしまったとさえ思える。
 泳いだことの無い水泳教師の指導など役に立たない。多分彼らはペーパーテストで合格したのだろうが、そんな人ではなく実際に泳いだ経験の豊富な人に教わりたいと誰でも考える。経験に基づいて考える人と机上での知識しか持たない人とでは知恵の深さが全然違う。現在の心理療法士の多くは泳げない水泳教師であり走ったことの無いランニングコーチのようなものだ。充分な人生経験が無いから言葉が上滑りする。大学で教わっただけの理論など付け焼刃のようなものに過ぎない。
 ヒヨコが育つのを待つよりも、大人が理論を学んだほうが有効だ。つまり大学生に心理療法を学ばせても20年ぐらいは使い物にならないが、充分に人生経験を積んだ人に学ばせれば即戦力として活躍することが期待できる。心理療法士の資格を青年に与えるのではなく50歳以上に限定した資格に変えたほうが良いのではないだろうか。心理療法士の仕事のためには理論だけでも人生経験だけでも不充分であり、両方を兼ね備える必要がある。
 変化の激しい社会では経験が軽んじられ勝ちだ。確かに科学技術であれば日進月歩であり古い知識は役に立たない。しかし生身の人間の悩みはそんなに変わるものではない。だからこそ今でも夏目漱石の小説が愛読されている。亀の甲より年の劫であり、人生経験の豊富な心理療法士であれば、精神科医を標榜する現代のヤブ医者よりもずっと多くの人を救うことができるだろう。

ノーシーボ効果

2015-03-16 10:01:52 | Weblog
 偽薬であっても薬効が生じるのがプラシーボ効果だが、無害の物を有害と信じることで支障が生じることをノーシーボ効果と呼ぶことを最近知った。
 この現象は催眠術の実験で何度か見た。ウルシの葉と偽って無害の葉を被験者の肌に触れさせると実際にカブレることが少なくない。
 催眠状態でなくてもこれはしばしば起こっているらしい。自動車保険が普及していない国では鞭打ち症が非常に少ないそうだ。逆に言えば自動車保険に加入している人の鞭打ち症の発症率が異常に高いということだ。一部は保険金詐欺もあるだろうが、被害があったほうが経済的なメリットがあるという心理によるノーシーボ効果も働いているのだろう。
 電磁波が有害だという話がある。科学的・医学的には証明されていないが実際に健康被害を訴える人がいる。副流煙が喫煙よりも有害ということは物理的にはあり得ないことだが、このことを根拠にして屋外喫煙が規制されつつある。これらはノーシーボ効果ではないだろうか。
 私の身近にも実例がある。母が一時期、高血圧を気にしていた。ところが一人で測れば少し高い程度なのだが、私が傍にいるとかなり高くなり、医師の前ではほぼ正常という奇妙な傾向を示していた。これは医師の前では健康でいたいと思い、私の前では不健康でありたい、つまりもっと世話を焼かせたという思いが血圧を上下させたのだろう。決して私が怒らせていたから血圧が上がったという訳ではあるまい。
 病は気からと言うが感情が体に与える影響は大きい。嫌だという感情があるだけでそれが本当に有害物になってしまうのだから面倒な話だ。柔軟剤や香水の匂いにせよ保育園の子供の声にせよ、嫌いな人には実際に有害になる。排気ガスや航空機の騒音は元々有害だが、これに怒っている人には一層有害になってしまう。健康でいるためにはある程度大様であることが必要なようだ。

詐欺

2015-03-16 09:37:00 | Weblog
 2013年の詐欺の認知件数は38,326件だったそうだ。殺人の938件と比べれば随分多い。しかしこれは氷山の一角に過ぎない。国を相手にした詐欺が含まれていないからだ。2013年度の生活保護費の不正受給は43,230件で187億円だったそうだ。あれほど騒がれている詐欺よりも不正受給のほうが多いとはどういうことだろうか。
 不正の内訳は①労働収入の無申告(46%)②年金等の無申告(21%)③労働収入の過少申告(11%)とのことだが、労働収入が捕捉し切れないのはある程度やむを得ないとしても、なぜ年金の無申告による不正受給が発生するのかさっぱり理解できない。厚生労働省内でのセクショナリズムが原因なのだろうか?
 労働収入の捕捉に関しては根本的な問題がある。非合法収入が申告されないということだ。申告すれば自ら罪を認めることになる。麻薬密売や詐欺や窃盗あるいは売春などによる収入が申告されることは無い。これでは犯罪によって生計を立てている人が総て生活保護の有資格者になってしまう。
 豊中市で酷い事件があった。小中学生の子供3人が両親に指示されて万引をしていたとのことだ。この事件がきっかけになってこの一家による不正受給が発覚した。父親は防水工としての収入があったそうだが、万引による収入は勘案されない。防水工としての収入を理由にして不正受給とされたが、万引の収入だけであったら不正受給には該当しないということになるだろう。何とも妙な話だ。
 生活保護費を受給している暴力団員が決して少なくないことはこの法律の欠陥の現れだ。何とか改められないものだろうか。非合法収入を得ている人は捜査権を持つ警察でさえ立証できないから処罰されずにいる。これを捜査権など持たない福祉担当者が捕捉することは不可能だ。刑法の原則は「疑わしきは罰せず」だが生活保護費は「疑わしきは支給せず」でも良いのではないだろうか。
 私は個人主義者のつもりだが、個人に対する犯罪よりも社会に対する犯罪を重く考える。個人に対する犯罪の被害者は多くの場合何らかの落ち度があるが、社会に対する犯罪は無辜の国民総てが負担を強いられるからだ。
 昨年の7月から不正受給の罰金が30万円から100万円に引き上げられたそうだが、43,230件の内一体何人が罰金刑を受けたのだろうか。ザル法であれば法改正をしても意味が無い。

2015-03-14 10:26:03 | Weblog
 名古屋に「ひつまぶし」という料理がある。鰻の蒲焼きを刻んで入れた混ぜご飯で多分「櫃まぶし」という意味だろう。私はこれを見る度に「暇潰し」と読んでしまう。米屋に「おこめ」と表示してあるとついつい違う言葉を考えてしまうのは決して私だけではなかろう。「会社主義」と「社会主義」も似ているし「ネオコンサバ」を「ネコオバサン」と読んだ人もいる。
 高校生の時にpubic hairという言葉を知った。陰毛という意味だ。この文字はpublicと一字違いだ。音にすれば全然違うが文字では瓜二つだ。こんな正反対の言葉が殆んど同じスペルで困らないのだろうか。
 昔、アン真理子という歌手の「悲しみは駆け足でやってくる」という歌の2番に「♪若いという字は苦しい字に似てるわ♪」という歌詞があったが余り似ているとは思わない。むしろ「崇める」と「祟る」のほうが似ている。老眼が進行中の私には見分けが付かない。こんな懸け離れた意味の言葉に似た文字が使われているのは何等かの事情があってのことだろう。
 同じぐらい判別困難なのは濁音と半濁音だ。大きな文字でなければ区別できない。だからネット上で「ノーバンの始球式」という見出しがあると驚いて思わずクリックしてしまう。
 人は言葉を都合の良いものや関心のあるものと勘違いし易いが、私は決してスケベなことばかりに関心を持っている訳ではない。脳が刺激的な言葉に敏感だからだと思う。
 人は赤い色に反応し易い。赤は血の色であり火の色でもある。だから赤は命に関わる色であり敏感にならざるを得ない。赤信号もその特性を利用しており最も重要な情報である「止まれ」を意味する。
 人は人の顔に異常に敏感だ。人面瘡や人面魚などが週刊誌等で取り上げられることがあるが、目・鼻・口らしきものが見えるだけで人面のように感じる。乳児でさえ目・鼻・口らしき模様に敏感に反応するらしい。この性質は先天的に遺伝子レベルで植え込まれているようだが、後天的に更に強化される。これは、他人の顔を理解することが群居動物として必須の能力だからだろう。顔によって個人を識別するし、微妙な表情から感情を読み取らねばならない。そのために顔らしきものを見ればすぐに反応するという性質が広く人類全体に定着しているのだろう。

両性

2015-03-14 09:43:24 | Weblog
 私は同性愛者ではないが、渋谷区議会に提出された同性のカップルに「結婚に相当する関係」を認める条例案に賛同する。家庭の単位が夫婦や親子でなければならないとは考えないからだ。企業の共同経営者が同性であっても構わないように、同性の他人による家庭があっても構わない。
 しかし「結婚に相当する関係」を認めることと結婚を認めることは異なる。例えば親子関係は夫婦以上に緊密な関係だが、親子で結婚することを認める訳には行かない。
 10日に民主党の細野政調会長は渋谷区のこの条例案について「非常に大きな前進だ」と評価した上で、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」という条項を「個人の意思を尊重する趣旨で書かれている」と解釈して「同性婚は憲法上認められている」と主張したそうだ。
 立法府の人間がこんな稚拙な間違いをしては困る。「両性」が男と女という意味であることは小学生でも分かる。「両者」であれば同性でも構わないが「両性」と明記されている以上、同性婚は憲法に背く。これを合憲と判断することは不可能だ。法令に使われている言葉の意味を勝手な解釈によって変えることは許されない。
 私は同性婚があっても構わないと考える。しかしそれは現時点では憲法に背く。だから同性婚を認めるためには憲法を改めるべきであって曲解によって正当化すべきではない。
 契約社会とは言い難い社会に住む日本人は条文を軽視する嫌いがあるが、条文に明示されていることは余計な解釈を加えずにそのまま受け入れねばならない。日本の政治家は成文法の意味を理解していない人が多い。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない(第9条)」と定めてある限り軍隊は持てない。これは当たり前のことだ。
 憲法の曲解は日本人の知性、特に論理的思考力を低下させているようだ。医療の現場では小児に対する使用禁止が明記されている薬であってもしばしば児童に投与される。制限速度40㎞/hの道路では大半の車が速度違反をしている。これらは事故が起こってから初めて問題にされる。日本人は本来ルールに忠実な国民性を持っている。このことは野球やサッカーの国際試合を見れば分かる。日本のチームは多分世界一フェアプレイを尊ぶ。ルール無視を頻繁に行うのは常習犯罪者と政治家ぐらいだ。立法府の人間が最低の人間であるとは全く嘆かわしいことだ。
 ルールは正しく守られることを前提にして定められており個人の意向で曲解できるものではない。現場が恣意的に運用すれば法治国家ではなく放置国家あるいは人治国家になってしまう。ルールは変更可能なのだから誤ったルールであれば改めれば良い。改めずに放置すれば悪用されるだけだ。
 玉虫色の条文のせいで多様な解釈を許すなら法の欠陥であり改正が必要だが、そうでなければ文字通りに読み取るべきであり曲解は成文法の理念を破壊する。

相互扶助

2015-03-12 10:21:12 | Weblog
 年金を「貰う」とか「貰える」とかいった表現は不適切だ。年金の支給は積立に対する見返りだ。株の配当と同様、正当な報酬だ。積立もせずに一方的に受益者になる生活保護受給者とは根本的に違う。
 積立だから当然損をする人もいる。早く死んでしまえば積立相当額も受け取れない。長生きすれば積立額よりも遥かに多く受け取ることになるがこれも「貰う」訳ではない。自分が長生きできるかどうか分からないのだから相互扶助だ。
 私が子供の頃、大企業に勤める人の家族は病院での自己負担が必要無かった。羨ましいと思ったがこれは間違いだ。大企業に勤める人は高額の保険料を納めていたのだから全然得する訳ではない。
 現在の国民健康保険もかなり高額の保険料を徴収している。殆んどの人は負担額のほうが多い。私のような歯科にしか掛からない者は金をドブに捨てているようなものだ。得をするのは病弱者と高齢者だ。これは相互扶助なのだから仕方が無いことだ。多くの人が損をするからこそ弱者が恩恵に与かれる。
 保険料が高いからという理由で医療を利用しなければ損だと考える人がいる。これが過剰医療の原因になっている。過剰医療は医師と製薬会社を設けさせるだけだ。そのせいで保険料が高くなり、元を取ろうとする意地汚い人が不必要な医療を受けて負の連鎖が拡大する。
 実はもっと困った問題がある。生活保護受給者に対する過剰投薬だ。生活保護受給者は医療費が無料なのでこの特権を悪用して複数の病院を回って得た薬を転売するケースが少なくないそうだ。2012年の11月に調査したところその月だけで5,177人による過剰投薬が見つかったそうだ。この不正な医療費は国民健康保険が全額賄うのだから、その負担も含めて保険料は上積みされる。相互扶助のために高額の負担になるのであれば納得できるが、制度の不備のために不正の温床になっており、その分まで負担させられるのは納得できない。簡単に改善できることを放置して善良な国民にその尻拭いを押し付けて知らぬ振りをする厚生労働省の杜撰な仕事ぶりには呆れ果てる。

薬物依存症

2015-03-12 09:45:09 | Weblog
 最近、凶暴な狂人が多いように思える。以前の狂人は静かな人が多かった。鬱病の患者は勿論、統合失調症の人も言動は支離滅裂でも暴れる人は少なかったし引き籠りの人が外で暴れることも無かった。最近、狂人による犯罪が少なくないのは医療が原因ではないだろうか。治療という名の元で精神を破壊しているのが現在の精神医療ではないだろうか?洲本市での5人殺害事件の平野容疑者も精神病院への入退院を繰り返していたそうだが「治療」によって凶暴化したのではないだろうか。
 様々な抗精神病薬が出回っているが、これらは精神を正常化する薬ではない。異常にさせる薬だ。異常な人を異常にさせてあわよくば正常化させようとする危険な薬だ。軽度の神経症患者を狂人に変える恐ろしい薬だ。危険ドラッグの類似品だ。
 医師は薬に依存する。薬を万能と信じ込む「薬物依存症」に罹っている。医師とは実は病人だ。もしかしたら狂人かも知れない。
 狂人が最も恐ろしいのは、自分が正しいと信じ込んでいることだ。麻原彰晃は本気でハルマゲドンの到来を信じていた。だからそれを防ぐために命懸けで戦わねばならないと考えた。人類救済のためなら総てが許されると信じたから地下鉄サリン事件を起こした。
 医師は麻原彰晃に似ている。医療を過信しているから何をやっても許されると考える。腹腔鏡手術で8人を死なせようと、開腹手術で10人を死なせようと、これは神の導きであって事故ではないと信じる。これは正に狂人の所業だ。
 狂人は自分が正しいと信じる。自分に従わない人を異常者だと考える。医師も医療を疑わない。医療にできないことは無いと信じるから患者を切り刻んだり毒物を投与したりする。彼らこそ狂信者であり狂人だ。
 事故における救急医療以外、医療による延命効果は殆んど無いことが証明されつつある。寿命が延びたのは栄養と環境の改善によるところが大きく、治療は殆んど貢献していないようだ。癌に至っては治療しないほうが長生きできるとまで言われている。
 最も歴史の浅い精神病の薬物療法は治療よりも悪化させるほうに貢献している。鬱病や認知症が増えたのはこれらが医原病だからではないだろうか。
 薬害認知症はこうして作られる。例えば降圧剤により脳に充分な血液が回らなくなると軽度の知的障害や欝状態が起こることがある。ヤブ医者はこの症状を見て危険な抗精神病薬を投与して本物の認知症や鬱病にしてしまう。恐ろしい話だ。
 医学が今真っ先に取り組むべき課題は医師の間で広く蔓延している「薬物依存症」の治療だろう。薬学の基本中の基本である「副作用の無い薬は無い」という事実を再認識させなければ薬物依存症患者に殺される人が増える一方だ。