俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

類推(続オフセット鎮痛)

2015-03-10 10:12:25 | Weblog
 世間には不幸になりたがっているとしか思えない人がいる。不良と付き合いたがる生徒、明らかに暴力的な男との交際を求める女、我儘な女に貢ぎ続ける男、健康を害するまで働き続けるサラリーマン、IS(イスラミック・ステート)に参加しようとする人、これらは明らかに不合理な行動だ。
 暴力的な男を好む女について心理学者ならこう解説するだろう。彼女は児童虐待の被害者だった。親による理不尽な虐待を承認することはできないが過去の事実を否定することもできない。だから親による暴力に対して意味付けをしようとする。自分が虐待されたことを是認したいから暴力的な男の長所を見つけようとする。暴力性を肯定できれば自分の過去が救済されると信じる。こうして虐待された子供が虐待する親になってしまう。あるいはもっと単純に、暴力的な男に父親のイメージを重ね合わせて親近感を覚えるのかも知れない。
 医学のオフセット鎮痛を理解すればもっと簡単で全く違った解釈が可能になる。例えば45℃の湯に浸かったあとであれば43℃の湯は余り熱く感じない。人間の五感は強い刺激を受ければそれまで感じていた弱い刺激が不快ではなくなる。このオフセット鎮痛の効果を殆んどの人が自分で何度も経験している。だから痒ければ傷になるまで掻き、騒音にはそれ以上の大音量で抵抗する。このように強い刺激によって日常的な不快感を解消している。
 不幸になりたがる人は大きな誤解をしている。新しい刺激が現在の不快を解消するのはあくまで知覚レベルでの事実に過ぎない。知覚レベルでの経験から類推して、新しい刺激によって苦しい過去を忘れようとしても、記憶は決して上書き保存されない。不快な記憶のファイルに新たなファイルが加わるだけだ。知覚は現在が総てだ。しかし記憶は過去を現出させる。過去の不幸が帳消しにされることは無い。
 こう考えれば、不幸になりたがる人が、不幸な過去を忘れるために新しい不幸を求めても虚しいだけだと分かる。彼らは知覚と記憶が別レベルであることを理解せずに、知覚での成功体験を演繹して不幸の解消を図る。これは絶対に成功しない。一層不幸になるだけだ。困難を克服すれば成長できるが、困難なことを次々に経験するだけであれば更に不幸になるばかりだ。

耐性菌

2015-03-10 09:38:29 | Weblog
 有性生殖をする動物が子孫を残すためには2つの関門がある。種族外淘汰と種族内淘汰だ。例えば尾羽の短いオスのクジャクの場合、飛翔力も走力も他のオスに優る。しかし生存競争においては適者である筈のこのオスの遺伝子は性淘汰されてしまう。クジャクのメスが尾羽の長いオスを好むために繁殖の機会を得られないからだ。優れた変異体であっても伴侶を得られなければ淘汰される。もしチンパンジーから人間が生まれても他に人間がいなければ子孫を残せない。
 無性生殖をする動物であれば自己分裂によって増殖できる。極端な変異体であっても環境に適応するという条件を満たすだけで増殖できる。
 ペニシリンは素晴らしい特効薬だった。多くの細菌を死滅させるからこれによって細菌との戦いは終結するかとも思われた。ところがペニシリン耐性を持つ変異体が現れた。耐性を持たない細菌が死滅していれば彼らは宝の山を独り占めできるので猛烈な勢いで増えた。
 これを退治するために人類はメチシリンを開発した。これによってペニシリン耐性菌を倒したが、今度はメチシリン耐性菌が誕生した。こうして多剤耐性菌が生まれ、このイタチごっこは今も続いている。
 この戦いは正直な話、分が悪い。細菌は物凄い早さで増殖し、増殖の途上で変異を繰り返す。その一方で新しい抗生物質の開発のためには時間が掛かる。細菌の進化と新薬の開発との競争はウサギと亀による競争のようなものだ。人類が勝つためには見つけた多剤耐性菌を1匹残らず殺さねばならない。1匹でも生き残ればそれが無数に増殖するからだ。
 しかし細菌を死滅させることは極めて困難だ。例えば耐性菌ではない病原性大腸菌O-157でさえ滅ぼすことはできず、毎年食中毒被害が発生する。多剤耐性菌を滅ぼすことはこれよりも遥かに難しい。しかしそれをやり遂げねば人類が死滅することにもなりかねない。
 ウィルスは細菌ではないがやはり頻繁に変異する。インフルエンザのワクチンが効かないのは変異が早いためにワクチンが有効ではない種に変異しているからだ。医学はインフルエンザのウィルスの変異にさえ対応できない。多剤耐性菌の蔓延を許せば人類は滅ぶ。核兵器よりも恐ろしい。

狂人

2015-03-08 10:24:21 | Weblog
 性格の悪い犬であれ狂犬であれ、人に危害を加える犬は殺処分される。人間側の勝手な理屈だがこれはある程度納得できる。
 異常な犯罪者の大半は狂人だろう。狂人であれば処罰されない筈だが実際には多くの狂人が処罰されている。処罰されるのは判断力が残っていたと見なされるからだ。本当に判断力があったかどうかは疑わしいが、この理屈では軽度な狂人なら凶悪な犯罪者であり、重度な狂人は病人ということだ。それでは明らかに重度な狂人である麻原彰晃はなぜ死刑囚なのだろうか?
 心神喪失や心神耗弱という概念はかなり恣意的に使われており、全く客観性を欠いている。これは法としての重大な欠陥だ。最も訳が分からない理屈は犯行時の精神状態を問うことだ。薬物で精神錯乱に陥っていたならともかく、それ以外については犯行時の精神状態など誰にも分からない。こんなことを基準にして判決を下せるものだろうか。
 刑罰の目的は大まかに分類して3種類ある。報復と賠償と治安だ。
 殴られたら殴り返すこと、これが報復の原点だろう。しかしこれは上手く機能しない。殴られた痛みを標準化できないし、殴り返されたほうが更に殴り返せばこの喧嘩は終わらない。これが仇討ち・返り討ちともなればどちらかの一族が死に絶えるまで続くことになる。だから報復権は個人から奪われて国が裁判に基づいて代行することになっている。
 賠償は最も分かり易い。相手に与えた損害を償うことは納得できる。しかし殺人などの償い切れない罪については賠償は不可能だ。
 治安は、権力者にとってと庶民にとってとでは全然違った意味になる。庶民にとっての治安とは安全に暮らせるということだろう。強盗や窃盗は一方的に加害者が悪いが、多くの犯罪においては被害者にも非がある。身を慎むことによってそれらの多くを避けることができるが、狂人による発作的犯行から身を守る術は無い。
 私は、狂人の多くは大人しいものだと思っていた。狂人による犯罪が騒がれるから過度に恐れられていると思っていたのだがどうやらそうではないようだ。4日に発表された東京大学の蔭山助教らの調査によると、精神障害のある子供や兄弟を持つ人の6割が暴力を受けた経験があるそうだ。これでは病院に隔離したくなるのも無理は無い。
 報復の観点では狂人は免責されるべきだろうが、治安という観点では放置できない問題だ。家族に責任と義務を押し付けて済むことではなかろう。

オフセット鎮痛

2015-03-08 09:43:15 | Weblog
 先日久し振りにキムチを食べた。大阪に住んでいた頃は時々食べていたので気にならなかったのだが、久し振りに食べると辛さのために舌が痺れて味覚が狂ってしまった。水やビールを飲んで正常に戻そうとしたが効果は乏しかった。こんな物を常食していれば味覚が駄目になるのではないかと思った。
 43℃の湯に浸かると熱く感じる。ところが45℃の湯に浸かった後であればそれほど熱く感じない。一旦、強い刺激に慣れてしまえばそれよりも弱い刺激は苦痛ではなくなる。
 痒いと掻きたくなる。痒みとは痒覚ではなく持続する弱い痛覚らしい。掻いてもっと強い痛みを覚えれば痒みを感じなくなる。
 私は按摩やマッサージを利用したことが無いが、これらの効果は錯覚なのかも知れない。痛む所を刺激してもっと強い痛みを覚えればそれまでの痛みを感じなくなる。持続していた痛みが消えるので治療効果があったかのように思い込む。
 医療ではこれらの効果をオフセット鎮痛と呼ぶ。今よりも強い痛みを得ることによってそれまでの痛みを感じなくなる。痛みに限らず五感総てに共通して似たようなことが起こる。
 目は明順応する。まぶしい光でもそのうち慣れる。耳も騒音に慣れる。電車や航空機の中はかなり騒々しいが乗客はその騒音を余り感じない。塩辛さや甘味にも順応する。塩辛い料理にせよ甘い菓子にせよ常食していればそれが基準値になって、普通の食品が物足りなくなる。嗅覚がすぐに匂いに慣れることは誰でも知っている。
 このように知覚においてはオフセット鎮痛が広汎に働くが記憶はそうではない。知覚は現在のことなので新しい刺激によって上書きされるが、記憶はファイル保存されているから消えない。以前からの苦しい思いに新しい苦痛が加わるだけであり上書き保存されない。このことを理解しない人は苦しい思いから逃れようとして新しい苦痛を求める。不幸な人が悪人と交わったり危険なことをしても、それによって過去の不幸な記憶が消える訳ではない。マゾヒズムは一時的に不幸を忘れさせるがそれはあくまで知覚レベルであって記憶レベルでの苦痛は軽減されない。オフセット鎮痛は知覚においては有効だが記憶においては無効だ。
 艱難汝を玉にす、という言葉がある。人は苦労を積み重ねて成長する。しかし今の苦境から逃れるために他の苦境を求めても成長することはできない。まず現在の苦境に正面から立ち向かって克服する必要がある。克服するからこそ成長する。知覚とは違って、記憶に対してオフセット鎮痛を求めても効果は無く、更に不幸になるだけだ。

大富豪

2015-03-06 10:07:13 | Weblog
 2日にアメリカのフォーブス誌が「世界のビリオネア」を発表した。ビリオネアとは10億ドル以上の資産を持つ大富豪のことであり、日本からは24人がランクに入り人数の多さでは17位だった。GDP第三位の経済大国の日本が大富豪の数では17位、これでも格差社会なのだろうか。世界有数の平等社会なのではないだろうか。
 ランキングと人数は下記のとおり。
 ①アメリカ(536)②中国(213)③ドイツ(103)④インド(90)⑤ロシア(88)⑥香港(55)⑦ブラジル(54)⑧イギリス(53)⑨フランス(47)⑩カナダ・イタリア(39)⑫台湾(33)⑪トルコ(32)⑭韓国(30)⑮スイス(29)⑯オーストラリア(27)
 当たり前のことだが主要国は総て日本より上にランクされている。香港や台湾や韓国でさえ日本より上位だ。もし日本が格差社会であるならこれらの国は超格差社会ということになる。
 米中はともかく、格差が問題にされるのは発展途上国だ。大富豪が少ないのに格差社会と騒がれる日本は貧しい途上国なのだろうか。
 格差社会とはマスコミが作り上げた幻想だろう。実際の日本は、シングルマザー以外は働く者が報われる社会、それどころか働かない者まで甘やかす奇妙な社会なのではないだろうか。だから外国人まで生活保護を受ける目的で日本に住み着いてしまう始末だ。
 外国人労働者を受け入れる必要など無い。彼らが失業すれば生活保護を受けるか犯罪者になる。その場凌ぎの低賃金労働者を輸入する必要など全く無い。むしろ女性と高齢者の雇用条件を改善すべきだろう。
 マスコミは偏向していると改めて思った。東洋経済オンライン以外のどの新聞も日本の大富豪の少なさには全く注目していない。各紙ともファーストリテイリングの柳井正氏やソフトバンクの孫正義氏がランクインしたことを報じるばかりで、日本の大富豪の少なさには論評しない。マスコミは格差社会という幻想を国民に植え付けようとして情報操作をしているのではないかと勘繰りたくなる。
 このデータを見て日本は格差の少ない国だと思う私とそう捕えようとはしないマスコミと、どちらがまともな感覚だろうか?データに基づいて社会は解釈されるべきであり、主張に背くデータを無視するマスコミのやり方はフェアとは思えない。

哲学と医学

2015-03-06 09:31:56 | Weblog
 カントは理性には限界があることを証明した。人は「無限」や「永遠」を経験することはできない。人が知覚できるのは無限や永遠がある「物自体」ではなく有限の「現象」に過ぎない。経験に基づいてしか思考できない理性によって無限や永遠について考えようとすれば必然的に矛盾に陥る。これが「二律背反」であり、理性万能主義を「僭越」として否定した。
 限界を知れば他の方法を選ぶ。人は100mを5秒で走ることはできない。だから機械を使う。自動車による地上走行の限界を超えるためには飛行機やリニアを使う。限界を知ることによって新しい文明が生まれる。
 医療にも限界がある。限界を知ることによって正しい治療が行われる。医療の限界とは自然治癒力を超えられないということだ。少なくとも現時点では、数十億年掛けて培われた自然治癒力を超えることはできない。
 傷の縫合はできても接合は自然治癒力にしかできない。ワクチンによって感染症が予防できるのは免疫力が働くからだ。これらは医学の勝利ではなく自然治癒力の勝利だ。医学に可能なことは自然治癒力が働くための条件を整えることであって病を治すことではない。
 癌にせよ生活習慣病にせよ、原因が分からないままでの対症療法はモグラ叩きのようなものだ。叩いても叩いても切りが無い。
 確かに、目の前に患者がいれば医師はできる限りのことをしようとする。しかしそれは溺れる者に対する藁に過ぎない。時には毒蛇を渡すこともある。気休めなど要らない。それは科学ではなく宗教に過ぎない。すがる者を不幸へと追いやる邪教のようなものだ。
 軍医でもあった森鴎外は脚気を感染症と信じたために多くの兵士を死に至らしめた。原因が分からなければ正しい治療などできない。原因が分からない時点での最善の対症療法は最も有害性の少ない改善策であるべきだろう。当然それは薬物療法ではない。生活習慣病であれば食事の改善とスポーツの奨励だろう。薬に頼った対症療法は有害なだけだ。
 対細菌戦においても人類は未だ勝利を収めた訳ではない。抗生物質の発見によって現時点では優位に立っているが、抗生物質が細菌の進化を促すことによって多くの耐性菌が生まれつつある。細菌の進化と新しい抗生物質の発見はイタチごっこであり、最終的には細菌の進化のほうが勝つのではないだろうか。医療が作ってしまった多剤耐性菌が人類を滅ぼす可能性は決して低くない。

鎮痛剤

2015-03-04 10:22:41 | Weblog
 鎮痛剤の中には胃などの臓器に炎症を起こさせるものがある。通常であれば胃痛などを感じるほどの炎症だ。ところがこれを感じない。それは鎮痛剤が痛みや不快感を感じにくくしているからだ。鎮痛剤は自ら作り出す痛みまで感じにくくする。
 これでは危険が迫った時に顔を覆ってしまう少女のようなものだ。見えなくなっても危険が無くなる訳ではないのだから、すべきことはその場を離れることだ。顔を覆ってしまえば逃げることができなくなって却って危険だ。
 感じないとは存在しないという意味ではない。怖いものから目を逸らしてもそれは存在し続ける。ガス漏れの匂いに耐えられる人はきっとガス中毒で死ぬだろう。サリンガスは見えないが猛毒だ。痛みを感じなくなることが症状の改善を意味するとは限らない。
 高齢者の中には頻尿に悩む人がいる。夜中に何度もトイレに行くから充分に眠れないし残尿感も不快だ。尿意だけを抑えればどうなるか?今度は失禁というもっと困ったことが起こる。不快感を抑えるだけでは問題は解決されない。
 ブラック企業で扱き使われている人は異常な精神状態になる。疲労感が蓄積されたり憂鬱にもなるだろう。それを抗鬱剤で抑えてしまえばこれが異常な状態であることが分からなくなり死ぬまで働き続ける。
 痛みに苦しむ人は痛覚を取り除きたいと思うだろう。しかし痛みは意味も無く存在する訳ではない。これ以上酷使すれば危険というシグナルだ。昔、甲子園球場では痛み止めを注射して連投する投手がいた。そんな人の一部は日常生活にも支障があるほど肩や肘を傷めた。「♪腕も折れよと投げ抜く闘志♪」(「巨人の星」より)が称賛されたのは過去の話であり、今では監督やコーチが制止しなければならない。
 実は人体には痛みを抑える物質が備わっている。アドレナリンなどの興奮物質だ。生命の危険などに晒されれば分泌されて一時的に痛みを忘れる。これは危険な状態から脱出するために分泌される。例えば戦場でうずくまってしまえば危険に身を晒し続けることになる。だから一時的に痛みを忘れさせる。火事場の馬鹿力もその一例だ。アドレナリンが分泌されると体の限界を告知するリミッターが働かなくなる。そのために無理をして骨折や捻挫などを起こし易い。これはあくまで危機を脱出するための非常手段だ。体内にある非常時用の劇薬だ。こんな物を常用すれば間違い無く健康を害する。たとえ脳内物質と同じ物であっても安全とは言えない。

平均回帰

2015-03-04 09:43:01 | Weblog
 ある科目の平均点が80点の生徒は毎回80点を取る訳ではない。70点から90点ぐらいの間でバラ付いてそれらを平均すれば80点になる。彼の個別の得点をグラフに表示すれば80点をピークにして大体正規分布するだろう。
 では彼が70点を取れば次の試験では何点を取るだろうか。50%以上の確率で80点前後に戻るだろう。それでは90点を取ったあとならどうなるだろうか。やはり50%以上の確率で80点ぐらいに戻るだろう。これを数学用語で平均回帰と言う。平均からズレてもすぐに平均へと回帰するということだ。決して直線的に上がったり下がったりする訳ではない。
 試験に対しては妙な信仰があるのでこんな例のほうが納得し易いかも知れない。余り正確でない体重計が12台あり、自分の体重を測ったところ10台目まででの平均値は60㎏だった。11台目では58㎏だった。12台目の体重計は何㎏と表示するだろうか。多分60㎏と予測できる。試験では学力の一部だけが測定される。これは不正確な体重計のようなものであり結果は毎回バラ付く。こんなものに一喜一憂しても仕方が無い。試験によって直近の学力を把握できると考えられ勝ちだが実はブレのほうが大きい。
 各自がベストを尽くす大学入試でさえ、再試験をすれば3割ほどが入れ替わると言われている。最上位のグループは安泰だが下位のグループの学力は上位不合格者と大差は無い。合否は少なからず運に左右される。普段の試験であればもっとバラ付く。
 このことを理解しない人が少なくない。70点を取った生徒を叱ったから80点に上がったと思い込むし90点を取って誉めたのに80点に下がったと思い込む。こんな事情があるから叱る効果は過大に評価され、誉める効果は過小に評価される。確率的に確実に起こることが人為的なものと誤解されている。これは祈祷をすれば雨が降るという迷信と同質だ。
 ブレと変異は区別されねばならない。ブレであれば放置しても構わないが変異には原因がある。最近勉強を怠っていれば70点を取ったのは勉強不足が原因だろうし、特に変わりが無ければ多分ブレだろう。一度の結果だけではなく経過に注目したほうが良かろう。移動平均などを使えばブレか学力低下かをある程度識別できる。
 実際には誉める効果のほうが叱る効果よりも大きいだろう。気分が良ければ意欲も増す。昔から、豚もおだてりゃ木に登るとまで言われている。その人の性格にもよるが、大半の人は誉められたほうが成長する。教育に携わる総ての人にこのことを知って欲しいと思う。

個体の違い

2015-03-02 10:11:57 | Weblog
 この牛とあの牛は同じ牛ではない。一方は乳牛でもう一方は肉牛かも知れない。あるいは一方は成牛でもう一方は子牛かも知れない。「牛」という単語は具体語ではなく抽象語だ。生物は個々に異なり同じ物はあり得ない。cowsと複数形にできるのは似たものを便宜上同一視するからだ。
 数値化は馬鹿げた理屈を生む。「1億の命と1つの命とどちらが大切か」と問われれば1億を選ぶだろう。しかしこれが1億の病原菌と一人の人間であればこの問いは無意味だ。
 人も個々に異なる。スポーツが好きな人もいれば動くことが大嫌いな人もいる。適量の飲酒を楽しむ人もいれば下戸もアル中もいる。万人のための有益性はあり得ないのだから万人に有効な薬もあり得ない。
 認知症の症状は人様々だ。これは人によって異なる場所が変質するからだろう。自然に起こるロボトミー現象のようなものだ。破損箇所が異なるのだから同じ治療法が有効な筈が無い。認知症に限らず精神病にはオーダーメイド医療が必要だろう。
 工業製品は素材や部品のレベルから均質化される。生物で言えばクローンのようなものだ。だからタカタのエアバッグのようにどれかに不具合があれば他の製品でも同じ不具合が続発する。均質である工業製品と個体差の大きい生物を同一視することは根本的に誤っている。
 アレルギー反応が現れるのは個体差があるからだ。卵や小麦などは大半の人にとっては重要な栄養源だが一部の人にとっては毒物になる。あるいは味覚も人によって異なる。甘さに対する感受性は男女で違うのではないかとさえ思える。
 同じウィルスが原因でも鼻水や関節痛など症状は様々だ。原因と結果は一対一対応しない。これは人の体がそれぞれ異なるからだ。体質が異なれば当然、薬の効き方も異なる。
 大半の薬は不快な症状を緩和するという効能しか持っていない。それは一部の臓器に異常反応を起こさせることによって薬効を発揮する。今のところ大人と子供以外の個体差は殆んど考慮されていないからしばしば薬効よりも副作用のほうが大きくなる。食物のアレルギー反応で死ぬこともあるのだから、薬は食物以上に個体差に配慮して処方されるべきだろう。人は工業製品とは違って均質ではない。

医療の限界

2015-03-02 09:37:21 | Weblog
 医療の貢献は偏っている。感染症と栄養障害に関しては素晴らしい実績を残しているが、それ以外については余り成功していない。虫垂炎などの外科手術ぐらいではないだろうか。
 成功している感染症においても可能なことは限られている。細菌や寄生虫であれば生物だから殺すことができるが、ウィルスは生物ではないから殺せない。だからウィルス性感染症を治療することは難しい。風邪でさえ治療できないのが現状だ。有効なのは主に予防だ。1つはワクチンの予防接種でありこれによって天然痘は撲滅された。もう1つは感染の防止、つまり隔離だ。
 こう考えれば医療に可能なことが極めて限られていることが分かる。治療できないからこそ予防や隔離に頼らざるを得ない。ワクチンにしても実は人体に備わった免疫力に頼っている。
 怪我の治療も自然治癒力が頼りだ。傷を縫合しても最終的に接合するのは自然治癒力だ。骨折した場合、正しい位置に戻すことしかできず骨の復元は自然治癒力に依存している。
 栄養障害は治療できる。ビタミンやミネラルなどの不足分を補えば欠乏症は治る。しかし実際に治療している訳ではなく、体が勝手に栄養素を吸収して自力で治すだけだ。
 留意すべきことは、医療が有効なのは正しい原因に対処した時だけだということだ。病原体を防ぐこと、不足した栄養素を補給すること、傷口を元の位置に戻すこと、これらは原因が分かっているからあるべき姿を設定できる。原因不明のままでの対症療法とは質的に異なる。
 癌や生活習慣病や精神病などは原因が解明されていない。だから実際には治療不可能な筈だ。それを治療できると考えるのは思い上がりだ。患者は溺れる者と同様、藁をもつかもうとする。医師が提供できるのはせいぜい藁か時には毒蛇だ。藁の代わりに毒蛇を与えられた患者こそ災難だ。これが医原病だ。
 医療の一部は人類に貢献した。しかし医療に対する過信と医療の思い上がりは人類に災いをもたらしている。医療に可能なことと不可能なこととを峻別して、可能なことに徹するべきだ。実際には風邪さえ治せないのに患者に有害物を処方して却って悪化させている。原因が分からないままでの癌や精神病に対するその場凌ぎの医療紛い行為は瀉血のようなものであり有害無益だ。できないことはできないと認める必要がある。現時点で医療に可能なことは自然治癒力の支援と補完だろう。
 カントの哲学史上での最大の貢献は理性の限界を明示したことだ。同様に医療の限界を知ることによって医療の改善が期待できる。