電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『虚数の情緒』

2004-09-25 19:26:47 | 自然・風物・科学
 吉田武著『虚数の情緒』(東海大学出版会刊/2000.2.20発行)を買ってしまった。インターネットで、どんな本かは、大体知っていた。昨日、会社の帰りに、池袋の「リブロ」により、4階の理工系の書籍売り場に行ったとき、この本を偶然に見つけた。1冊だけ、まるで、私が買うのを待っていたみたいに、そこにあった。

 サブタイトルに「中学生からの全方位独学法」とある。一応、中学生以上が読者対象になっている。判型はB5判、書体は10p明朝体で大きく、1ページに1行35字で28行横組み、本文総ページ972ページの数学書だ。全ての初出漢字にルビが付いている。本体価格4300円。買うのに、少しだけ勇気がいる。

……さあ、諸君、勉強を始めよう勉強を。数学に限らず、凡そ勉強なんてものは、何だって辛くて厳しい修行である。然し、それを乗り越えた時、自分でも驚く程の充実感と、学問そのものへの興味がわき起こってくる。昔から、楽して得られるものなんて、詰まらないものに決まっている。怠けを誘う甘い言葉は、諸君に一人前になって貰いたくない、という嫉妬である。思い切り苦労して、一所懸命努力して、素晴らしいものを身につけようではないか。(巻頭言より)

 私が読み終わる頃には、きっと息子が中学生になり、この本を読めるようになるだろう。そんな打算も働く。しかし、もっと早く読み終わることができるかもしれない。いずれにしても、「読み書き算盤」だけは、子どもに負けないように頑張ってみようと思う。

……携帯電話より糸電話が、TVゲームよりは折り紙が、インターネットよりは紙芝居が、英語よりは敬語が、優先されるべき年齢がある。学ぶに相応しい年齢がある。その年齢を見誤らないことが、教育の鍵である。(同上)

 『脳を鍛える大人の算数ドリル』とかいう本が売れているそうだが、「本物の数学書」に挑戦することも、きっと脳を若く保ってくれるに違いないと思う。もっとも今の私が数学を「学ぶに相応しい年齢」かどうかは、定かではないが。それにしても、たった1冊本を買って、こんな決意表明みたいなことを書いたのは、初めてだ。

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ドラキュラとヴァン・ヘルシング

2004-09-24 09:45:50 | 文芸・TV・映画
 昨日は、学校も仕事も休みだったので、親子3人で、映画を見に行った。映画館は「ユナイテッド・シネマ入間」。2005年6月30日まで実施されている夫婦のどちらかが50歳以上なら夫婦(2人)で2,000円という入場割引サービスを使う。だから、親子3人で3000円。映画は、スティーブン・ソマーズ監督の「ヴァン・ヘルシング」。

 ヴァン・ヘルシングとは、もともと、ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」に登場する原因不明の病気の世界的権威のヴァン・ヘルシング教授をモデルとしているようだ。小説で60歳だったヴァン・ヘルシングは、ここでは全く新しいヒーローに生まれ変わっている。また、アナ王女も、小説の主人公の英国の弁護士ジョナサン・ハーカーの婚約者ミナがモデルだと思われる。小説のミナは、ドラキュラ伯爵がワラキア公国の王ヴラド・ドラクル伯爵の生まれ変わりだとすれば、その妻エリザベータの生まれ変わりだ。

 映画『ヴァン・ヘルシング』では、そうした小説『ドラキュラ』のことを半分忘れた方がいいかもしれない。先ほどの『ヴァン・ヘルシング』の公式サイトでは、次のようにヴァン・ヘルシングが紹介されている。

……19世紀、ヨーロッパ。夜の闇にモンスターの影がうごめいていた時代。ローマ・バチカンの秘密組織から命を受け、そのモンスターを狩る男がいた。男の名はヴァン・ヘルシング(ヒュー・ジャックマン)。彼の行く先々には必ず死体が残された。モンスターであることから開放された人間の死体が。彼はそのために各地でお尋ね者となり、また一方で謎に包まれた境遇から聖者とも呼ばれた。しかし、果たして彼が本当は何者であるのか、それは彼自身ですら知らない。過去の記憶の一切を失った彼は、その答えを探して、戦いと冒険の日々を続けているのだった。


 また、アナについては、次のように紹介されている。

……彼女の名はアナ(ケイト・ベッキンセール)。代々、ドラキュラと闘い続けてきたヴァレリアス一族の王女だった。そして彼女の兄ヴェルカン(ウィル・ケンプ)は、闘いのさなか、ウルフマンに変えられドラキュラ伯爵の手に落ちていた。突然現れたよそ者、ヴァン・ヘルシングを警戒し、反目するアナ。しかし、共通の敵、不死身のドラキュラを倒すため、二人は行動を共にすることになる。


 これらのことについて詳しく知るためには、「映画の森てんこ森■映画レビュー」の『ヴァン・ヘルシング』と『ドラキュラ』についての解説が参考になる。こういう親切なサイトがWeb上にいっぱいある。もちろん、映画専門のブログサイトもあり、いろいろな情報が手にはいる。

 いずれにしても、物語の荒唐無稽さと手に汗を握るスリリングな展開のために、私たち親子はとても満足した。グロテスクで不気味な怪物たちについても、『ロード・オブ・ザ・リング』を観ていたので、特別驚かなかった。久しぶりに、何の気兼ねもなく、映画に集中できた。

 ところで、「ドラキュラ伯爵」を調べていて、辻調グループのHPの辻調「食」の世界を見つけた。そこに、menu「食のコラム」があり、その中に「小説を食べよう! 小説の中の料理を再現」というコーナーがあり、『吸血鬼ドラキュラ』と「インプレタタimpletata」という料理についての記事がある。原作にはインプレタタについての詳しい記述がないが、それを再現して見せてくれる。

……珍しい料理を口にするつど、ジョナサン・ハーカーは、婚約者であるミナのために調理法をメモしているらしい文面が日記にあらわれるが、実際にそのメモは登場しない。文中に取り上げられているのは、ルーマニアやハンガリーでポピュラーな料理ばかりだが、その中で、「インプレタタimpletata」という名前の料理だけは見つからなかった。そこでこれを取り上げて再現を試みた。

 そう言えば、映画『ヴァン・ヘルシング』には、食事の場面が一つもなかったような気がする。舞踏会の場面でも踊りだけだった。とてもスリリングで、スピーディに物語りが展開していて、食事のようなゆったりした場面は作り込めなかったのかも知れない。

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「それでも地球は回る」

2004-09-23 09:16:10 | 子ども・教育
 毎日新聞によれば、縣(あがた)秀彦・国立天文台助教授らの調査によって、小学4~6年生の約4割は「太陽が地球の周りを回っている」と考え、半数以上は月の満ち欠けの理由を理解していないなど、基本的な天文知識を欠いていることがわかったという。縣助教授は「現在の小学生の学習内容は極めて不十分」として、学習指導要領の修正を提案しているという。

……縣助教授は2002年施行の現行の学習指導要領では、地上から見た太陽、月、星の動きの観察といった天動説的な内容しか扱っていない点に問題があると指摘。次回の改定時には「太陽、月、地球が球体であることや、その全体像をきちんと教えるべきだ。地上から見た天体の動きと宇宙での位置関係を正確に理解できるようにしてほしい」と話している。

 私は、この記事を読んだとき、子どもが地動説を理解していないのは指導要領だけのせいだけではないような気がした。我が家の3年生の息子に尋ねたところ、「地球は、太陽の周りを回っている」と答えた。我が家ではNHKの科学のドキュメンタリー番組が好きで、よく見ていた。だから、自然と子どもも地球に興味を持った。恐竜が滅びたのは大隕石の落下があったからではないかというような説も知っている。つまり、彼は、そこで、地球の成り立ちや、太陽系、銀河系のでの位置などの知識を得たようだ。それから、ウルトラマンや機動戦士ガンダムなどのアニメ、またスターウォーズなどからでも、そうした知識を広げたはずだ。

 ガリレオが地動説を唱えるためにどれほどの知識を必要としたかで分かるように、天動説から地動説に変わるためには、普通の自然体験などではとうてい理解することができないし、小学生の持つ学力では説明することも難しいように思う。しかし、直感的な映像の力で、子供たちは地動説を理解してしまうと思う。地動説を知識の体系として身につけるのは、多分小学生では無理だと思う。ただ、人工衛星や月ロケット、火星探査ロケットなどの知識や映像が積み重なることにより、直観的に地動説を前提とした宇宙の姿を理解できるようになると思われる。もちろん、その原因としての「引力」については完全に理解できないとしても、この段階では仕方がないと思う。

 私は、子どもが「天動説」のレベルなのは、指導要領や小学校で教えていないのではなく、ましてや自然体験がないのではなく、単に「地球や太陽や銀河系」に対する興味がないことが理由のような気がする。興味さえ示せば、すぐにでも、「地動説」を知ることができる情報や映像がこれほど氾濫している時代はないからだ。もちろん、なぜ、そうした理科的なことに興味をしめさなくなってしまったかは、問題である。この記事については、seigoさんが「The Journal of Seigology」で丁寧な解説を書いている。私なりにまとめると、次のような主張に整理できると思われる。

1 地動説を子どもに教えるには、ある程度の教え込みを覚悟しないとできない。
2 理科・科学の学力低下を自然体験の不足に還元することはできないし、体験重視は学力低下を助長しかねない。
3 理科・科学は、体験ではなく、「なぜ」を問う学問だ。
4 自然体験重視派は、自然に対する感受性というような感性・情緒の育成を重要視するが、それをそのまま教科教育に持ち込みすぎてしまい、「知性の教育」という側面がおざなりになっていないか。
5 こうなってしまうのは、「こころの教育とか人間性の育成だとかが叫ばれ過ぎて、人間の理性的な側面の育成をなおざりにされている風潮がある」からではないのか。

 その通りだと思う。小学校でも様々なおぞましい事件が起きている。確かに、「心の危機」であるかもしれない。しかし、あまりに「心の教育」と言うことが強調されて、「知の力」を軽視しているのだ。と言うより、現状では、「心の教育」ということさえおぼつかない。授業がしっかり成立していないことさえある。だから、「知の教育」など、かまっていられないという傾向さえある。逆なのだ。まず学校で「知に教育」をしっかりやれば、本当の「心の教育」も可能になるのではないかと思う。

 小川洋子さんの『博士の愛した数式』(新潮社)を読んでみればいい。私は、主人公の家政婦の「数」に対する興味の示し方がとても面白いと思うし、数学の面白さとはそういうものだと思う。つまり、彼女は「知」の中の本当の楽しさを味わっているのだし、学ぶということはそういうことだと思う。地球の不可思議な現象や美しさ、素晴らしさに気づき、それに対する興味・関心を持つことこそが、理科での「関心・意欲・態度」といえるのであって、それ以外に、「関心・意欲・態度」があるのだろうか、という気がする。それぞれの教科の本当の面白さを教えることができるようになれば、子どもは変わると思う。

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「一緒に飲みたい上司」

2004-09-22 09:04:18 | 生活・文化
 この手の調査は、半分いかがわしいところがある。特に、上司とか部下とかをタレントで象徴させようとしているので、そこのとらえ方で意味がかなり変わってくる。まあ、自分の酒の飲み方と比べて見ることはできると思うが。「キリンお酒と生活文化研究所 レポートVol.6」によると「会社(職場)の人とのお酒の飲み方」に関する意識調査についてつぎのような解答になったという。

■ 会社(職場)の人とお酒を飲むのは、月平均1.8日で、平均予算は4,562円。

■ 一緒に飲みたい男性の上司は明石家さんまさん、女性の上司は黒木瞳さんがトップ。
■ 一緒に飲みたい男性の部下は香取慎吾さん、女性の部下は矢田亜希子さんがトップ。
■ 男性と女性では、違いがあり。
  同性から支持される男性上司は星野仙一さん。女性から支持されるのは明石家さんまさん。
  同性から支持される女性上司は久本雅美さん。男性から支持されるのは黒木瞳さん。

 「会社(職場)の人とのお酒の飲み方」に関する意識調査結果の詳しいデータによれば、世代別では、60代の月2.2回に対し、20代は1.5回と、若くなればなるほど、職場の人と飲む機会は少なくなっている。これは、実感としてよく分かる。また、よく飲む酒(複数回答)は、ビールが87%と最も多く、焼酎(38%)、チューハイ・サワー(34%)、日本酒(28%)、発泡酒、ワイン(それぞれ14%)と続くのもよく分かる。最もこれらの場合、会社以外の人と飲みに行く回数もわかるといいと思った。私の推測では、そちらのほうも減少しているのではないだろうか。

 ただ、主な話題は「仕事の話」「仕事の愚痴や失敗談」「職場の噂話」など仕事関係の話題が圧倒的に多いというのが私にはよく分からない。会社の人と一言に言うが、上司、同僚、部下があり、どういう人たちと飲むのかがわかるデータがあるといい。しかし、おそらく、同僚が多いのではないだろうか。仕事が終わってから、そのまま、自然と飲み屋に行くということは現在少なくなっている。特別な会社の行事でもないと、上司や部下と飲みに行くというのはなくなっている。私たちの若い頃は、仕事以外の話をしたし、仕事と関係ないことで遊んだりした。むしろ、会社の同僚以外とはあまり飲みにいけなかったといったほうがいいのかも知れない。仕事関係の話題しか話せないとしたら、月に1.5回と言うのはよく分かる気がする。しかし、会社関係の人と飲むときには、逆に仕事以外の話などしたくないのかもしれない。

 一方、「男性は、リーダーシップのある頼れる上司と飲みながら仕事や人生の話をしたいと思っている一方で、女性は気さくで明るい人柄の上司と楽しくお酒を飲みたいと考えている」と分析されているが、少ない回数で同じ飲むなら、当然の希望かもしれない。男性と女性の差は、職場での自分の立場のせいかもしれない。男性は、飲むときにも仕事のことを考えているのに対して、女性は仕事より楽しく飲むことを大事にしている。仕事のことはもういいと思っているのかもしれない。現在では、酒を飲むのは恋人だけということだってあり得る。それこそ、仕事で飲まざるを得ないときは別として、そうでないときは、できたら自分の親しい人と飲みたいというのは当たり前だ。誰だって、アットホームな環境で飲みたいのだ。そうでなければストレスが溜まるだけだと思う。家族つきあいを大事にしたり、個人的な関係を大事にしたりするのは、悪いことではないと思う。

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「親が変われば子は変わる」

2004-09-21 09:11:41 | 子ども・教育
 昨日の午後、代々木進学ゼミナールグループ主催の「家庭や職場で役立つ心理学」シリーズが、昭島のフォレスト・イン昭和館であった。子どもを義理の妹の家に預けて、妻と二人で、参加する。

 最近、拝島周辺によく来る。このフォレスト・イン昭和館は、前にテニスコートがあり、周りはゴルフ場を配し、こんもりとした森に囲まれた落ち着いたホテルだった。昼食をレストラン「セントロ」で取る。妻は、「パスタランチ」とドイツ産の白ワイン。私は、「サーロインステーキランチ」とカリフォルニア産の赤ワイン。食後のコーヒーを飲んでいるとき、目の前にあるチャペルの前を、羽織袴の新郎と文金高島田に白無垢の花嫁が、ゆっくりと通り過ぎていった。そして、向こうにある池のほとりで、写真を撮っていた。

 講師は、明星大学教授、感性教育研究所所長の高橋史朗先生。1時から3時までの予定だったが、たっぷり話して3時半まで。なかなか面白い。企業でやる研修会で時々似たような話を聞くが、基本は多分同じだと思う。違うのは、企業の場合は部下に対する上司のあり方であるのに対して、ここでは子どもに対する親のあり方である。

 「親や教師の子どもに対する関わり方を変えることが、子どもを変えることである」として、「子供観」を変えることを説く。今、子どもの脳が危ないと言い、IQに対してPQ(人格的知性)を育てることが大事だと言う。PQを育てるための8つの方法を教えてくれた。確かに、これらは今の子どもたちに欠けていることばかりだ。

●PQを育てる8つの方法
1 夢や目標を持たせる
2 多様な人間関係、社会体験を経験させる
3 直接体験、原体験を増やす
4 自分で選んだ体験をさせる
5 読書特に音読が脳を育てる
6 暗算をする
7 幼いものの世話をする体験をする
8 野外キャンプなどで自然に触れる

 「アンダースタンド」から「リアライズ」へと言うそうだ。ただこれらは、いろいろな人たちが言ってきたことをまとめたものだ。「しっかり抱いて、下におろして、歩かせろ!」というのが、昔からの子育ての格言だそうだが、私はそれを知らなかった。核家族になり、妻と二人だけで子育てをしてきたが、それは確かにつらいことである。妻は専業主婦になったが、働きながらというのはつらいことだと思う。私は、妻が専業主婦になることにより、半分子育てを放棄してきた。そして、妻に言わせれば、甘いパパになった。ただ、なかなか難しいこととは言え、高橋先生の言うPQを育てるための活動は、妻と協力してやってきたように思う。

 こうした講演にどんな人たちが参加しているのかは、興味のある問題である。おそらく、まじめに子どもに対してきて、それでも多少不安になり、自分たちの行為の正当性を確認しに来たのかもしれない。あるいは、子どもがそろそろ変わり初めて、対処の仕方が分からなくなって来たのかもしれない。私たちの場合は、前者だ。しかし、それでは、親は変わったことにならない。大事なことは、親もまた、子どもと同じように、自分の夢と目標を持つことだという言葉には反省させられた。ただ、私は、高橋史朗さんの「教育の原点は自分探しだ」ということには、少し違和感を持った。

 不登校児や障害児たちとその親たちの作文をいろいろ読んで聞かせてくれた。確かに、それらは感動的な作文である。学校に行けない子どもが、自分の本当の気持ちに気づき、そして立ち直っていく。また、障害児たちが自分の体の障害を受入、肯定的に受け止めていく過程とそれを見て今までの自分を変えていく母親の心の変容の過程は感動的である。しかし、本当にさがすべき「自分」などというものはあるのだろうか。学校に行けなくなっている自分がおり、自分としての身体の障害をどうしても受け入れられない自分から、やがてそれらを受入、自分を肯定的に取られるようになったというべきではないだろうか。私には、彼らがエリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』の5段階をうまく生きられたのか、それともうまく生きられなかったかの違いのような気がする。養老孟司さんが言うように「日々変化する身体としての自分」以外に自分があるとは思えない。それ以外の「自分」があるといってしまうと何か神秘的な「自分」になってしまうような気がする。


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