お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

機内食いろいろ

2004年12月01日 | 旅・外国
イギリス、エジプト、ギリシャ、イタリア、オーストリア、西ドイツ、スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、フランス、ポルトガル、スペイン、アメリカ、カナダ、インド、モロッコ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、チリ、ケニア、パキスタン、タヒチ、バリ(インドネシア)、イースター島(チリ領)、ニュージーランド、香港、こうして書き出して見るといろんなところに旅をしました。僕が海外旅行でワクワクするのは、出発前の成田空港。インドに行ったときは、飛行機の出発が遅れて、成田空港の理髪店に入り、髪を切って貰いました。「お客さん、これからどちらへ」と聞かれ「ちょっと、インドのニューデリーまで」という様なオシャレ(?)な会話を理髪師のおじさんとしました。いろんな飛行機にも乗りました。インドの国内線は、「自由席」だったし、アフリカに行く時に乗った飛行機は、客を乗せすぎて、席が無くなり、キャビン・アテンダントが「立って離陸しました」さらにその飛行機が着陸した瞬間、酸素呼吸器が天井からどっと垂れ下がってきたのです。世の中、生きているといろんな目にあいますね。僕の私見ですが、自分の乗った航空会社でサービスがいちばん良かったのは、「ヴァリグ・ブラジル航空」です。いろんなものを貰いました。歯磨きセット、スリッパ、安眠マスクなどなど。そして、最高なのが、機内食。ワインを頼むとドンと一瓶出てきて、さらに分厚いステーキが出て、それはそれはとても幸せな気分になりました。ただ、東京-リオを24時間かけて飛ぶので、それくらいのサービスは必要なのかもしれません。話は飛びますが、リオデジャネイロの地下鉄は、日曜日は休みです。南米でいちばん驚いた事です。ペルーでは、「ナスカの地上絵」を見に行った時の事。朝、ホテルに現地の旅行会社の車が来たのですが、その車に知らないおばさんが乗っているのです。「誰?」って聞くと添乗員さんの実の「おばさん」で、おばさんが住んでいる町がナスカまでの途中なので、乗せていってくれとのこと。頷くしかありません。出発してしばらくしたら、車は道のそばの食堂の前に止まるではありませんか?「どうしたの?」って聞くと、「おばさん、朝ごはん」・・・・・僕も食べましたけど。トイレに行きたくなり、大の方だったので、食堂の人に場所を聞くと、建物の裏手にあるとのことで、裏に回り、それらしきドアを開けて、ビックリ!!!!!四畳半の部屋のセンターに洋式便器があったのでしょうが、今は部屋一杯の高さ3メートルのウンコのピラミッドができていたのです。この辺りは乾燥しているので、ピラミッドの表面は固まっていて、みんなそこを登っていっていちばん頂上でウンコをするのでしょう。くさい臭いはしませんでしたが、僕は遠慮し、我慢して、ナスカ近くの遊覧飛行機が飛び立つところのホテルのトイレで用を足したのでした。通常、南米ではトイレには、お尻を拭いた紙を捨てる籠が必ずあります。何故かというと、水洗の水の力が弱い為、トイレに紙を流すとすぐ詰まってしまうからです。それに、乾燥していて、籠に入れても臭わないし。ボリビアとペルーの国境の町のトイレでは、「手を洗うところ」と思っていたのが、「小便をするところ」だったので、南米の人は足がほんとに長いんだなあと感心しました。背の高い僕がおしっこをしても、爪先立ちでしたから。南米の人の背がそんなに高いとは思えないし。海外話は脱線してばかり。これに懲りずまた書きます。
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父の死について

2004年12月01日 | 家族
僕の父は三年位前に脳梗塞で倒れ、一年と少し入院し、二年前の六月に他界しました。危篤の電話が入ったのが深夜で、東名高速に乗った頃、父の死を知らされました。朝、大阪に着き、喪主を務め、バタバタと日にちだけが経っていきました。母に聞いたのですが、僕は長男で、いちばん上なので、「男の子」が生まれたと聞いた時、父は「この子が大きくなったら、屋台で一緒に酒を飲みたい」としきりに言っていたそうです。子供である僕は、実家では父とビールを飲む事はありましたが、屋台に行って一緒に飲む・・・という事に「恥ずかしさ」「てれ」を感じていましたし、父が僕が生まれた時、そんなことを父が言っていた事を知らなかったか、母に言われても忘れていたのかもしれません。それまで「二人称の死」を経験した事が無かったので、両親はずっと僕と妹のそばにいてくれるものと勝手に思い込んでいました。ほんとに空気の様な存在でした。とっても大切な人だけど、普段は普通に接していて、そのことを意識しない・・・というような。女性は、母親と娘で買い物に行ったりします。男性というのは、どこかで究極の「気恥ずかしさ」があるのか、父と息子は、屋台に飲みにはいけなかったのです。その事は父が亡くなり、年月が経つにつれ、僕の体に染み渡るような哀しみを感じさせるのです。母の事を大切にする事が僕のすることであり、きっと父もそれを「屋台の酒」の代わりに望んでいるようで、ときどき晴れた空を寝転んで見ていると、父の笑顔が浮かんでくるのです。
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知覧を知っていますか?

2004年12月01日 | エッセイ・日記・意見
鹿児島県の知覧を御存知でしょうか?太平洋戦争最後の特攻基地です。ここに何万通という、特攻に旅立った若者(20歳か、少しそれより下でしょうか)の遺書が直筆で残されています。知覧平和資料館という名前の施設だったと思いますが。僕はここに去年の年末、思い立って、一泊二日で行ってきました。きっかけは、TBSの「さとうきび畑の唄」という昨年夏放送されたドラマを見てです。鹿児島空港からレンタカーを借りて、一時間ほど。ひとつひとつの遺書を読んでいると滂沱の涙でした。明日、「死ぬ事が分かっている人間」が書いた文章は、50年という時間を超えて僕の心に迫ってきました。ある若者は、小さい時に実の母親を亡くしたのでしょう。19歳まで、継母に育てられ、その継母宛の遺書が残っていました。「私は明日、お国の為に旅立ちます。19年、私を大切に育ててくださってありがとうございます。最後にどうしても、いままで言えなかった事で、言いたい事があります。『おかあさん、おかあさん、本当にありがとうございました』・・・」。この人は継母の事を19年間「おかあさん」と呼べずに、死の前日、特攻に行く前に、遺書の中でやっと「おかあさん」って言えたんだなあと、僕の心に共鳴しました。遺影もたくさん展示されていて、それぞれの人達に、それぞれの親がいて、家族がいると思うと、どれだけの想いで、この知覧を飛び立ったのかと、思いを馳せました。昔は、人は家で死にました。その「死」を見ているから、「おばあちゃん」や「お父さん」の死を身近で見ているから、「命の尊さ」が子孫へと伝わっていったんだと思います。今は、ほとんどの人が病院のベッドの上で亡くなります。「死の瞬間」を子供たちが見る機会は格段に減っていると思います。「いかに死ぬか」を考えていけば、「いかに生きるか」にたどりつくような気がします。こんな時代でこんな社会だからこそ、一度、知覧に足を運ばれるのもよいことだと考えます。
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