お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「ミュージック・ステーション」を見ていて・・・

2004年12月24日 | テレビ番組
もう時代は、音楽番組に「賞取り番組」とか「紅白がどちらが勝つか、という番組」は求めていないようです。長いミュージッククリップとして、音楽番組を捉えているのだと思います。基本は、歌う歌手の顔の表情。いろんな最新の移動カメラなどがありますが、それは一瞬のポイントだけに使って、あとは、歌う本人を見たいのですね、ライヴに行っている感覚で。音楽番組も変わり目に来ていると思います。「ベストテン」「紅白」が楽しみ(?)です。
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「土砂降り」と「放送日」

2004年12月24日 | テレビ番組
かつて、京都の南の木津川の「流れ橋」という木製の、「時代劇」でよく使われる場所で、「満州のシーン」を撮った事があります。爆破有り、赤ちゃん有り、外国人有りの、ロシア兵から、日本人家族が逃げるシーンです。そこに雨が降ってきたのです。キャスト・スタッフが寒いだろうと思い、味噌汁を買いに行って帰ってきたら、監督に呼ばれました。この「土砂降りの状態」で撮影を続けさせるのか、と。当時、僕はプロデューサーアシスタントをしていて、プロデューサーは脚本の打合せで東京に行っていました。携帯電話も無い頃ですから、プロデューサーがつかまるはずも無く、アシスタントの僕が「撮影決行」か「撮影中止」かを決めなくてはならなくなりました。出演者のスケジュール、ロケ地の関係で、このロケを中止すると、「放送に間に合わなくなる」という事が分かっていました。土砂降りの雨、当時20代の僕と60歳位のベテラン監督がずぶ濡れで、監督車の前で、にらみ合います。そして、僕は言いました。「中止にしましょう」・・・そしたら、監督は「撮ってやるよ・・・」と言われました。監督も、今日撮らなければ、放送に間に合わない事を重々知っていたのでしょう。プロデュースサイドに「怒り」を見せる事で、キャスト・スタッフへのケジメを付けたかったのだと思います。幸い、天気も小雨になり、午前一時に撮影は無事終わり、監督に感謝しつつ、大阪へ帰るロケバスに揺られ、なんか、「至福の気持ち」になっていた僕がいました。「人間関係」は難しいですね。特に、ドラマの様に多ければ100人位の人が関わっている現場は、ちょつとした事で、雰囲気がガラッと変わります。とてもデリケートなものなのです。
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「国民栄誉賞」と「宝塚ホテル」

2004年12月24日 | エッセイ・日記・意見
国民栄誉賞って、どうなんでしょう。「時の政治家」の道具に使われている気がとてもします。1989年2月9日、僕の敬愛する漫画家・手塚治虫さんが60歳で亡くなられました。同じ歳に、あの美空ひばりさんも亡くなられているのですね。どちらが偉いという事ではなく、ひばりさんには、国民栄誉賞が与えられて、手塚さんには、与えられないのは・・・「国民栄誉賞」なんて、どうでもいいと思いつつ・・・おかしい事だなあと思いました。僕は、1985年、手塚治虫さんの番組をやって、前年の暮れに、高田馬場にある手塚プロダクションの狭い応接室で、手塚さんを待っていました。
「お待たせしましたねえ」という優しい言葉と共に、手塚治虫さんは入ってこられ、打合せをし、後日、宝塚から、大阪・四ツ橋の電気科学館、そして、道頓堀の松竹座とロケに付き合って下さいました。手塚さんはこう言っていました。
僕の漫画は『宝塚』という洋式の「ハイカラさ」(宝塚歌劇の影響が「リボンの騎士」に出ていますよね)と、『大阪』の「泥臭さ」が混じり合って出来ているんだよ」とおっしゃられていました。ついでに言うと、僕の思うに、「とても真面目な話になると、笑わせたくなる」という大阪人の習性が、「ヒョウタンツギ」や「オムカエデゴンス」を生んだのではないかとにらんでいます。1989年2月9日は、ぼくにとって、とてもとてもショックな日でした。「火の鳥」の結末が見たかったです。
ちなみに、「手塚治虫さん」と、僕の大好きな小説家「筒井康隆さん」は、どちらも、「宝塚ホテル」で結婚式を挙げられております。僕も十数年前、「宝塚ホテル」で結婚式を挙げました。来客の皆さんには、大阪市内から遠くて、御迷惑をおかけしましたが、どうしても、あのホテルでやりたかったのです。
コメント (1)
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