お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

寝台特急「あさかぜ」「さくら」が無くなる!

2004年12月23日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
寝台特急には、高校の修学旅行の帰り、青森から上野まで乗りました。夜中にトイレに行きたくなったので、「あき」と扉の横に出ていたので、ガラッと扉を開けると、若い女性が向こう向きにしゃがんでいて、思わず「白いお尻」に見とれ、すぐさま、自分のベッドに飛び込んだ記憶があります。その女性は僕のベッドの下の人でした。夜中に寝ていて、名も知らない駅に列車が停まっていて、ホームに雪なんか積もっていると、旅情は途端に増しました。新婚旅行の時、ポルトガルのリスボンからスペインのマドリードまでいわゆる「リスボン特急」と言われる寝台特急に乗ったのですが、マドリードに一時間早く着いて大慌てした事が゛あります。実は、列車の運行が間違っていた訳ではなく、リスボンとマドリードの間に一時間の時差があったのです。それに気付かず、僕も妻もゆっくりしていたのでした。寝台特急は「旅のシンボル」なのに。時代には勝てませんね。
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メガネは一体、どこの国でいつ頃できたのだろう。

2004年12月23日 | エッセイ・日記・意見
原始人はメガネなど無かったので、「近視」になったら、どうしていたのでしょうか。それとも、今のモンゴル人の様に、本を読んだり、近くのものをあまり生活上、見ないのでみんなとても視力が良かったのかもしれません。それが文明が発生し、ガラスというものが作られる様になって、メガネはできたのでしょう。じゃあ、コンタクトレンズは?となると、うちの妹が高校生の時には、あったので、25年以上前には出来ていたのでしょう。今、僕が使っているワンデーなんかはもっと後だと思います。僕は大学時代にもハードコンタクトレンズを半年位した事がありましたが、目の違和感がひどくて、コンタクトはずっと諦めていました。しかし、一年ほど前から左右の視力の差がひどくなり、メガネで矯正していると、頭痛や肩こりを起こすので、ワンデーに変えました。ワンデーは楽で良いですね。
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北海道・浦河の大きな木

2004年12月23日 | テレビ番組
8年位前のドラマで、北海道を舞台にしたものがありました。台本の設定上、牧場のそばの岬の先端に大きな木が生えていて、そこで重要なシーンの撮影がありました。そういうシチュエーションで生えている木はなかなかありません。そこで、美術部が大きな木を運んできて、岬の突端に植えました。ロケは無事終わり、そして、4年の歳月が流れ、違うドラマで、浦河に行く機会がありました。もう当時植えた木は枯れているだろうと思っていたのですが、大地にちゃんと根を張って、より一層大きくなっていて、遠くからでも、岬の上の木が見える程になっていて、少し感動してしまいました。「木」の生命力というのは凄いのですね。
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年賀状書き

2004年12月23日 | エッセイ・日記・意見
今日は、朝から一日中かかって、年賀状の文章の方を書いていました。さっき、終わりました。宛名はプリンターで印刷したのですが、個々の人への文章は基本的に、変えているので、膨大な時間がかかります。会社には、年賀状を一枚も出さない人もいますが、それが出来ないのですね。文章を書く事が好きなので、そんなに苦にはならないのですが、枚数が年々増えていくので、作業量は増えます。明日、すべて投函できる様にしました。年賀状だけで、20年以上もあっていない人もいます。でも、一年に一回の年賀状の交換が良いのですね。やがては、すべてメールの年賀状という日も来るのかもしれませんが。
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「旅人算」と「鶴亀算」と「植木算」

2004年12月23日 | 教育・学校
僕は、中学受験をしました。算数は「力の5000題」と「応用自在」を塾で使っていました。その中で、「旅人算」とか「鶴亀算」「植木算」などを勉強したのですが、それが今、どんな役にたっているのかというと疑問です。今の子供たちの受験も同じような事を教えられているのでしょうか。なんか、教育に、「ディベート」の様な、人によって価値観が違うものを入れ込んで言った方が良いと思うのですが、今、教えている先生方の世代は、僕と同じで、「ディベート」とかを自分の子供の時、教えられていないので、結構実現は難しいかもしれません。英語で「降れば土砂降り」というのを「It rains cats and dogs.」と教えられたのですが、アメリカ人に聞いてみると、そんな使い方はしない。「It rains heavily.」と言えばよいと、教えられました。もっと英語なんかもどしどし、外国人教師を招聘して、ヒアリングから教えていくべきではないでしょうか。「増税」しか考えてない「アホ首相」のいる国では無理かもしれませんが。
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辛い坦坦麺を食べたい!

2004年12月23日 | 料理・飲み物・食べ物
辛いものが大好きです。会社の場所が変わって二年近くになりますが、前の場所の近くの高級中華料理店の「坦坦麺」は、めちゃめちゃ辛かったです。新しいところに引っ越してきて、その後、行った事はありませんが、あの「坦坦麺」を食べたいです。口の中が「火事」になります。今の会社の近くにも「坦坦麺」の美味い店を見つけたのですが、辛さではおよびません。それと話題は飛びますが、長崎にプライベートで旅をした時、長崎駅前のなんということはない普通の食堂で食べた「チャンポン」もとっても美味しかったです。長崎は物価も安く、長崎にいた友達と、高級ラウンジに行ったのですが、二人で二時間位いても、一万円はいきませんでした。沖縄のタクシーの初乗り料金が390円なのと似ていますね。
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カレーうどん

2004年12月23日 | 料理・飲み物・食べ物
うちでも、うちの実家でもそうでしたが、「カレーうどん」というのは、前の日に食べて余ったカレーのルーを茹でたうどんにかけるだけ、なのですが、お店で食べる(特に「うどんや」)「カレーうどん」は、ちゃんと汁状になった汁の中に、うどんが入っているのですね。これは関東の特徴なのでしょうか。そういえば、有名なうどんや「こなや」に午後2時頃に遅い昼食で行ってみると、30食限定の「バナナの天ぷら入りカレーうどん」というのがあり、注文すると、まだ売り切れておらず、食べれましたが、午後2時までに、限定30食が無くならない理由が分かった気がしました。
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「テレビ東京」でしか見れないレポーター

2004年12月23日 | テレビ番組
具体的な名前は、差し控えますが、僕は一時、ごちゃごちゃした番組を見るのに疲れ、「テレビ東京」の「日曜スペシャル」の「美味しい店の特集」とかを見ていまのした。もう、取材交渉もして、絶対分かっているのに、番組の流れでしょうか・・・「確か、この辺にあるはずなんですけど・・・」と、レポーターの歩くカットがあって、「あっ、ありました、ここ、ここ」と言って、店に入って行くのです。凄い短いロケ日数、タイアップでお店の宣伝も兼ねて、無料にしてもらっているのでしょう。だから、レポーターは一日、何食も食べているはずです。「くいしん坊万歳」という今でも続いている番組をやっていた人から聞いた事がありますが、あの番組は毎日放送している為、一日5本分を撮るのが当たり前だったそうです。その人は撮影が終わったら、理由を説明し、料理を残して、次のロケ地に移動していたらしいですが、真面目な人になると、お店が頑張って作ってくれた料理を残すのは失礼だと思い、一日何食も食べ、その結果、太り、体を壊して、中には、何人か、亡くなっているのです。グルメ番組のロケも大変だと思いました。タイトルの事ですが、本当に「テレビ東京」以外で見た事の無いレポーターがハイテンションでレポートするのは、とても不思議です。でも、彼らは慣れているので、どの様にしたら、視聴者に料理の「美味しさ」が伝わるか、よく分かっていて、「リアクション」も的確なんですね。だから、だらだら、何も考えずに見やすいのかも知れません。それとも、「テレビ東京」がそういった人たちに年間で、決まったギャラを渡して拘束しているのかなあ・・・そんな事は無いと思いますが。
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三浦浩一(漢字がちがうかもしれませんが)さんをご存知ですか。

2004年12月23日 | テレビ番組
かつて「びっくり日本新記録」という番組が日曜日の夜七時からありました。これは、いろんな個性的な「競技」を素人の人を集めてやる番組でした。ここから、発展して生まれたのが、毎年、夏に放送されている「鳥人間コンテスト」です。「びっくり日本新記録」には、ひとり「三浦浩一」というタレントさんが毎回、素人に混じって参加していました。彼は今、どうしているのでしょうか。本当に、今、ふと思いついた疑問です。でも、当時毎週違う競技を放送できていたなと感心します。今でいうと、終わってしまいましたが、「筋肉番付」の内容を毎週変えて、しかも、放送時間は30分。制作費は大丈夫だったのかなあ・・・と今頃、僕が心配してもという感じです。
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ツイスター・ゲーム

2004年12月23日 | エッセイ・日記・意見
白地に、四色の○が印刷されているビニールシートと、ルーレットの様なもので、男女でやるというのがこのゲームの始まりです。思春期の頃やつたら、結構興奮していたでしょうね。今でも売っているのかなあ。昨夜は、「スピンスタジアム」という、円形の形で、中央に向かってボールが落ちていくという1970年代に流行った(僕はこの流行は知りませんでした)ゲームを家族でやりました。インターネットショップのアマゾンに頼むと2日で来ました。家族揃ってこういうゲームをやるのも良いもんだなあと思いました。子供たちも喜んでくれていたし。一人でゲーム機でゲームをするのより、ずっとこちらの方が家族の会話も増えて良いと思います。
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お笑いマンガ道場

2004年12月23日 | テレビ番組
という番組がありました。中京テレビが作っていました。先ごろ亡くなった、「サンワリ君」を書いていた漫画家の鈴木さんともう一人の漫画家の対決が面白かったです。昔の「笑点」の「歌丸」「小遊三」の対決の様でした。司会は、のちに、広島テレビの夕方のニュースキャスターになった柏原さん。この人は今は国会議員です。そして、「だん吉、なおみのオマケコーナー」というのが番組の最後にありました。テレビ「失楽園」がヒットした時、「川島なおみ」は、この「車だん吉」との事を経歴から、わざわざ削除していました。あんなに面白い番組だったのに・・・。
堂々と自分の過去の仕事を明かせばかっこいいのになあ、と感じました。でも、とっても印象に残る番組です。
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ダジャレの効果

2004年12月23日 | 笑い
「ダジャレ」と人は、僕の言う「ダジャレ」を馬鹿にします。でも、反復効果というのがあって、何度も聞いているうちに、段々可笑しくなってきます。「メレンゲの気持ち」改め、「メレンゲのキムチ」、「おしゃれカンケイ」改め、「ダジャレカンケイ」、「蘇る金狼感謝の日」などなど・・・如何ですか。お酒を飲んでいると、段々可笑しくなってきますよ。さあ、ご一緒に!!!「定年退職」改め、「定年定食」、「ホームレス」改め、「ホームレズ」、段々面白くなくなってきましたね。自分でもそう感じます。「時計」改め、「ホットけい」なんてね。「フカフィレオフィッシュ」読んでると段々、怒ってきました?[麹町っち売りの少女」・・・「ブラック・ジャックと豆の木」「白雪玉姫殿」「浦島太郎と次郎」・・・この辺でお開きに。
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宇宙旅行の時代になるのか

2004年12月23日 | エッセイ・日記・意見
1970年、僕は小学生。大阪万博が開かれました。アメリカ館では「月の石」を見る為に4時間もならんだものです。まあ、地球の石とどこが違うのか、良く分かりませんでしたけど。前年に、アポロ11号が月面着陸して、拾ってきた石でした。アームストロング船長が「この一歩は小さいが人類にとっては大きな第一歩である」という様な意味の言葉を言っていました。宇宙飛行士になった人の多くは、「地球を外から見るという体験」の結果、「宗教家」になるか、秋山さんの様に「農業をして地球と触れ合う」か、「気が狂うか」・・・そのような人が多いと何かの本で読んだような気がします。普通の人の心には「体験が大きすぎて、耐えられない」のかも。僕は、その頃、どんどん宇宙開発が進んで、自分が大きくなったら、宇宙旅行に行けるのでは・・・と考えていました。SF小説が好きだつたので、その影響も大きいでしょう。「マクドナルド火星店」で、火星人と、一緒にビッグマックを食べるのが夢でした。(どんな夢や!)しかし、宇宙開発はその後、あまり進まず、僕の夢も実現できずにいます。
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日航機が墜落した日のこと

2004年12月23日 | エッセイ・日記・意見
1985年の夏でした。夕方頃、ニュースで、「日航機の機影がレーダーから消えた」というのを聞き、会社をでました。当時はまだ、大阪で、夕日が出る晴れた日・・・とても暑かった記憶があります。誰と飲んだのかは忘れましたが、会社が終わってすぐから、近くの居酒屋で酒を飲んだのを憶えています。結果的には、御巣鷹山に墜落していました。来年で20年の歳月が経ちます。3名の方が助けられ、その中で川上慶子さんがヘリコプターで吊り上げられる映像は鮮明に記憶しています。彼女は、その後、看護士になりました。いっぺんに家族を亡くした喪失感は彼女にとっては、他人には分からない位、大きなものだったでしょう。会社の友人のお父さんも事故に巻き込まれて、亡くなりました。ネットで集まって、「集団自殺」をする人もいる今、「人間、一人一人の存在、そして命」の大切さをもっともっと考えていくべきだと思います。


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