椿寿荘とは。ネットより引用。
大正時代、日本の五百町歩(500ヘクタール)以上の大地主の半数は新潟にあった。なかでも「千町歩」の巨大地主は新潟に5家を数え、田上の田巻家(原田巻家)も、そのひとつ。
田巻家は江戸末期、1300町歩、小作人2794人を抱えた。1897年、7代目当主が「不況で仕事のない小作人を働いてもらう」ために、当時日本三大名人の一人と言われた富山・井波の宮大工松井角平に依頼して建てた離れ座敷が、椿寿荘。建築に3年半を費やした。
屋敷は、建坪約140坪、ヒノキを使った重厚な寺院様式で、クギを一切使わず仕上げている。目を引くのは、随所に使われた銘木。樹齢800年の会津欅(ケヤキ)をふんだんに使った玄関と露縁。菊を透かし彫りした欄間のクスノキの1枚板。
圧巻は露縁のひさしのけたに使われた約20メートルの節ひとつない吉野杉。大阪から海路、新潟から信濃川をさかのぼって運ばれた。
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ここの前は何度も通過していて、古い立派な建物があるなぁとはわかっていたが、これまで立ち寄ることがなかったが、ローカルテレビで紅葉の名所として紹介されていたので、じゃあ行ってみようか、と。
新潟市中央区天野から信濃川沿いにほぼノンストップの県道1号線を辿ればそこはもう田上町。椿寿荘はすぐそこ。
駐車場に車停めると、すぐに紅葉がお出迎え。
売店で入館料払い、中へ。
薬医門
すると、首から身分証を掛け、小脇に資料を抱えたスタッフさんが、「これから6名の団体さんを案内するから、良かったら一緒に椿寿荘の説明をしますが」とのことで、ちょっと迷ったが、大人数ではないので同行することにした。
玄関前に柊の花が咲いていた。
尖ってない葉っぱがあるが、柊は、樹齢を重ねると葉っぱが丸くなるとの説明。まるで人のようでしょ?とのこと。
玄関の天井は、日本建築の古式を伝える組入天井。釘を使っていないが、耐震性も十分な強度があるとか。照明も大正時代からそのままとか。
客人を迎える絵。どの向きから見ても視線が客の方を向いてように見えるとか。言われてみれば・・・。
三の間から、上段の間を見る。
上段の間から三の間
この照明もオシャレだが、これは大正時代のものではない。一時期、わけ合って照明は蛍光灯になっていたことがあったが、これじゃああまりに・・・ということで、この照明に付け替えられた。そんなことまで教えてくれなきゃ、ああ、良いねぇ、で済んでしまうんだが(笑)
菊の透かし彫りが施されている欄間。
上段の間の床の間。掛け軸も立派なもの(だそうだ)
では、庭の紅葉を。
床の間の前に座り、座る場所をずらしたり、障子の開け具合で、自分の好みの画角で庭を眺めるのが風流なんだそうだ。
奥次の間の生け花も紅葉
廊下から
お庭に降りて
突然、玄関のほうから大勢の見物客が押し寄せてきた。退散。
玄関前にもまだまだ大勢。
脇をすり抜け、密から離脱。最後に振り返って
駐車場に戻ると、
なるほど、観光バスが2台。
日常が戻ってきてるね。
最後にもう一枚。
では、五泉市蛭野へ。
続く。
建物の素晴らしさにも感動しましたが、新潟の大地主の多さにも
新潟が故郷の者として誇りに思えて嬉しかったです。
七代目さんの心意気も素敵ですね✨
昔、越中の人からは「越後の者は、肋骨の一本足りないお人好し」と言われていたとか(^^;)
こちらの逸話を聞かせて頂くと、越後人は肋骨の一本や二本無くったって、
どうもなく生きて行ける、
そんなおおらかさや肝っ玉の太さまで感じられますね(^_-)-☆
ちょっと気になることがあって、続きの記事も書けずにいまして、ブログにアクセスしてませんでした。
新潟の5件の千町歩地主(せんちょうぶじぬし、なんですね。せんちょうほじぬしって読んでた)は、市島家(市島邸)、伊藤家(北方文化博物館)、斉藤家(孝順寺)、白勢家そしてこの田巻家だそうです。白勢家の邸宅は現存していないそうです。詳しくは新潟文化物語で検索してみてください。
肋骨一本無くたってどこ吹く風。そんな心持で生きていけたら、ですね。煩悩に負けそうなきょうこの頃。