4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
- 公安及び善良な風俗を害しないこと。
- 政治的に公平であること。
- 報道は事実をまげないですること。
- 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
( 平成二三年六月二四日に改正され4条になった)
放送法には、このようにテレビの政治的公平性が規定されている。
ただ、テレビメディアが本当に政治的に公平なのか問題となる。
公平とは、辞書によれば、自分の好みや情実などで特別扱いすることがなく、すべて同じように扱うことをいう。言い換えれば、ある政治的問題について価値判断しないということだろう。
はたしてそのようなことは可能なのだろうか。
価値判断しないということは、いいも悪いも言ってはいけないということだ。実際には、テレビのコメンテーターは、ある問題について、良い悪いを言っているし、最近は中立であるべきニュースキャスターすら、言っている。
公平性は、建前にすぎない。テレビ局には、一定のイデオロギー的な考えがある。それは自明のことである。
例えば、テレ朝・TBSは左、日テレ・フジは右である。決して政治的に公平ではない。
問題は、それを隠蔽しながら、公平に報道しているかのような建前をとっていることにある。
私は、放送法を改正して、政治的公平性の部分を、削除したほうがいいと思っている。そのかわり、局の政治的立場を明らかにする条項を加えるべきだと思っている。
ある問題について、意見をいった瞬間に価値判断が生じる。何故そのような価値判断をしたのか。それが明らかにされなければならない。
それを明らかにするのが、真の意味での公平だろう。
ニーチェは「道徳的現象などというものは全く存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する」といった。
意訳すれば、正しさは存在しない。ただ、正しいと解釈する者がいる、ということだ。
ニーチェの優れたところは、客観的に正しい道徳は何かという形而上学的問いを否定し、正しい道徳だと語る者は誰かという権力的な問いに転換している。つまり、物事に対する評価は、その価値を判断する者・語る者を分析しなければならない、ということである。
ある問題についてこれが正しいと語る者がいた場合、その正しさは、その者がどういう立場で、何のために言っているのかを分析しなければならない。簡単にいえば、その者の得られる利益である。
一つの問題について多様な利害があれば、その利害をめぐって、いろいろな意見が生まれる。
大昔から、取り分の大きな問題ほど、ケンカが絶えないし声が大きくなる。
そのテレビ局が、ある政治的問題について、なぜそのような価値判断をするのか、言い換えれば、それを言うことで何を得ているのかが問題なのである。