今、貴志祐介の「新世界より」を読んでいる。ちょうど、上巻の三分の二くらいまで読み終わった。
今度、この小説を題材にしたアニメが作られ、テレ朝で放映されるそうだ。
かなりの話題作で、前から気になっていた小説でもある。
この小説は、広い意味でのサイエンス・ファンタジーである。個人的にSFはあまり読まない。だからかもしれないが、今のところピンときていない。
まだ、上巻なので、これから面白くなるのかもしれないが。
小説が面白いか面白くないかは、主観的なもので、人それぞれである。もちろん、優れた小説は多くの人の心を打つが、それでもそれを面白くないという人は必ずいる。
そこで、はたと思ってしまった。面白さって何なんだろうと。
面白さを定義するのは、なかなか難しい。簡単にこうだとは言えない。
ただ、小説のリアリティーについては語れそうだ。
もちろん、リアリティーがあっても面白くないものもある。
だが、面白いものには必ずリアリティーがある。
だから、この小説のリアリティについて考えてみたいと思う。
私たちの脳は複合的な世界に生きている。
いま、パソコンの前でこの文章をタイピングしている。これは現実の世界である。
と同時に、テレビをつけてライヤーゲームを観ている。テレビの画像を観ているという点においては現実世界であるが、物語の世界に入り込んでいるところは脳内の仮想世界にいるといえる。
つまり、私は体はひとつであるものの、脳内の中では二重に世界を体験しているわけである。
この現実の世界が本物で、空想の世界が嘘ものだと、簡単に言えない部分がある。
なぜなら、脳内の仮想世界が、現実の身体に影響を及ぼすからである。例えば、ライヤーゲームを観ることで、心臓がバクバクしてくることがあるからである。
人間の身体は、外界からの変化に対応するために、その安定を保とうとする機能がある。
例えば、体温、心拍、呼吸である。
このように、身体がさまざまな機能を働かせ平衡を保とうとすることを、身体の恒常性維持能力という。
この恒常性維持は、外界の変化に対応しているわけであるが、この外界は現実世界に限らない。さっきライヤーゲームの例をあげたが、仮想世界も身体の恒常性に影響を与えるのである。
つまり、恒常性に影響を与えるその外界が、リアリティーの本質なのである。
小説は紙の上に書かれたインクのシミに過ぎない。そのシミが、人間の心臓をバクバクさせたり、呼吸を乱したりする。
「新世界より」といっしょに西村寿行の「ガラスの壁」を借りてきた。
すこし読んだが、相変わらずの小説だ。
西村寿行は、20代の頃、オーストラリアのユースホステルの本棚においてあって、暇つぶしに読んだことで知った。
なんていうんだろうか。ハードボイルド、バイオレンス、エロ小説とでもいおうか。
ユースホステルで読んだ時、今まで経験をしたことがないくらいムラムラして、あれが立ちっぱなしだったことだけ覚えている。女性を襲ってしまうんではないかと心配するくらいだった。
レイプ、陵辱などなど。とにかくエロすぎ。
小説の仮想世界が激しく私に影響を与えたということは、私にとって、この小説はリアリティーがあるということだ。
仮想世界は、現実の世界ですでに経験した脳内の記憶から生まれる。
すでにある記憶に働きかけることで、恒常性に影響を与えることができる。
つまり、小説のリアリティーは、この内部の記憶が重要な要素となる。
記憶は、人それぞれ違う。だから、リアリティーもその人それぞれ微妙に異なってくる。
逆に、仮想世界が、脳内の記憶を書き換える場合がある。
優れた小説が、現実世界では味わいないくらいの経験を与えてくれる場合などがそうである。
また、意図的に都合のいい仮想世界作り出し、他人の脳内の記憶を書き換え、自分の利益を図ることがある。それを一般的に洗脳という。
現実世界は、今この一瞬の経験であり、時間が経てば、過去の記憶となる。
過去の記憶が厳しいものであれば、それがトラウマとなることもある。しかし、過去の記憶は仮想世界のものであるから、書き換え可能である。
だから、トラウマも治せる。
優れた小説はそのような力もある。
恒常性維持機能を乱すように働きかけるには、恐怖が一番である。
快楽(恋愛)、好奇心、人間の共感能力も、恒常性維持機能に影響を与えるだろう。