フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

変性意識と自己保存本能の低下 2

2013年09月19日 00時38分49秒 | 社会・政治・思想哲学

 前回のブログでは「偶発的認知型」の変性意識について考えてみた。
 今回は「価値」についてである。

 価値というとかなり広い概念であるが、はっきりと定義はできない。とりあえず、魅力、凄さ、感動とでも言っておこうか。この価値が、変性意識をもたらす。
 
 再度、弱腰矯正読本から、例を引用してみよう。


 1 同級生の友人Nと私は、戦闘機が好きでした。中学二年のころ、たまたま空母に載っている戦闘機が横須賀に来ているということで、一緒にそれを見に出かけました。
 飛んでいる戦闘機を見て、私は「速いなぁ」程度にしか感じませんでしたが、Nは生で見た感動が大きいのか、金網にしがみついて微動だにしませんでした。仕方がないので、私は本を読んで時間をつぶしていたのですが、何度急かしてもなかなか動いてくれず、結局半日付き合わされました。
 それからの彼の目つきには狂人のような輝きがあり、体を鍛え、理系の勉強に励むようになりました。聞いてみたら「本物の戦闘機を見て、この戦闘機に触れるために、自分は生まれてきたことが分かった」と言っていました。

 2 中学生の頃、私はいじめにあっておりました。ある日、それを少しでも紛らわそうと思って、映画館に一人で行きました。二十分、三十分と経つうちに、私は変になってしまったのです。それは何と言ったら良いか、圧倒されて自分がなくなってしまったというか、顔面は火を吹くように紅潮し、体全体が鳥肌を立て、握りしめた両拳はべっとりと汗をかき、気がつくと頬に止めどもなく涙が流れていました。
 映画が終わって帰るときも、足元がふらふらして、酔っぱらいのようでした。
 その上に、その時はなぜか優しい気持ちになっており、恐喝されたら、喜んで持ち金全部を渡してしまいそうな、あるいは、周りの人がすべて親や兄弟のような、何か不思議な気持ちになっていました。

 3 私の職業は助産婦です。病院の年間の分娩件数は約1800件、一日平均5,6名の新生児を取り上げており、私もその中の何百というお産に立ち会ってきました。
 そんな中、我が子の誕生を厳粛に全身全霊をもって受け止め、感動の渦の中に立ちつくす夫に出会うことがあります。絶えまない陣痛に苦しむ妻へのいわわり、生まれてきつつある子への愛情と励まし、その夫の気持ちが切々と伝わってきて、私もまたいつの間にか深く静かな感動の世界に引きこまれてしまいます。
 生まれた瞬間、最も美しい夫婦、親子の姿を見ることができます。それは美しい真実であり、「すべてOK」の世界であり、何をもっても否定出来ないこの世の素晴らしき善いことなのです。
 少なくとも、その瞬間は絶対にそうなのです。


 ここの例に出てくる人たちは、何かの「価値」に出会っている。
 この価値が、日常の防衛意識を薄れさせ、その価値のために命を投げ出してもいいような気分を生み出している。
 つまり、「価値」は、自己保存本能を超えるのである。この価値が変性意識を活性化させるのである。
 例えば、本物の恋愛をしている人、有意義な仕事についている人、幼児を育てている親、日々新たに感謝の気持ちを持ち続ける宗教人、などはその典型である。
 この価値に触れ、変性意識状態にある人にとって、退屈な日常はない。この人達は、自分のことなんて本気でかまってはいられない。自分の信じる価値のほうが重要で、日常的防衛意識が低くなっているのである。
 
 価値を感受する能力が高まり変性意識状態になりやすくなれば、自己保存本能が低下する。 逆に、自己保存本能が強ければ、価値を感受する機会は減ることになる。
 


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