フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

能動的ニヒリズム

2011年12月13日 08時56分12秒 | 社会・政治・思想哲学

 真理や価値を求めていくと、ある時そんなものが全くないことに気づく。道徳や法律は、トラブルを回避するためのものであって、真理とは関係ない。だから、社会が混乱すれば法律は役に立たなくなる。
 
 ニーチェが言ったように、真理を求めればいつかニヒリズムに陥る。簡単にいえば、「神は死んだ」ということだ。
 
 ただ、ニヒリズムには受動的ニヒリズムと能動的ニヒリズムがある。
 
 受動的ニヒリズムは、予測不可能な事態が起こり一切の価値が信じられなくなり、無気力になってしまうことである。震災後、関係ない東京で自殺が増えたが、この人達はこのニヒリズムに陥ったのではないかと思う。
 
 一方、能動的ニヒリズムは、積極的にどのような真理や価値も一切認めず、今この瞬間を生き抜くことに集中するという態度である。

 この能動的ニヒリズムは、無気力になりがちな現代の生活を生き抜く方法として優れていると思う。
 ニーチェは、仏教を虚無主義といったが、今この一瞬を問題にする生き方という意味では、両者の考え方は重なる部分が多い。
 

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棒ノ折山 名栗湖方面から

2011年12月12日 08時57分11秒 | 登山

 昨日、奥多摩の棒ノ折山に行ってきた。棒ノ折山は奥多摩の御嶽駅から岩茸山経由では何回も登っている。しかし、秩父側の名栗湖の方からは登ったことがなかった。
 きついコースからか、奥多摩方面からはほとんど登る人がいない。けれど、棒ノ折山の頂上はいつも人で賑わっている。それは、名栗湖方面から登る登山客が多いからだ。そこで今回は、名栗湖方面から登ることにした。
 想像以上に、面白いコースで楽しかった。棒ノ折山に登ろうとする人は、こっちのコースをお薦めする。




 このコースは尾根を登るコースではなく谷間を歩くコースである。だから途中から沢沿いの登山道になる。沢沿いだから危険といえば危険である。しかしそれが楽しい。


 




 
 それほど高い山ではないが、もう雪が積もっている。軽アイゼンがあったほうがいいと思う。

 猟犬のかわいいビーグルが、ウロウロしていた。そういえば狩りの季節だ。ビーグルは匂いで鹿を探す。
 下りでビーグルの飼い主に「犬見ましたか」と聞かれた。見たといって、状況を説明した。馬鹿犬がと軽く怒っていた。人懐っこくて登山客についていくらしい。私が軽く頭を撫でたら喜んでいた。あんまり猟犬にむかないような感じだった。
 黒っぽい格好をして山の中をウロウロしていると熊と間違えられて撃たれると悪いから、注意して歩こう。



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東京の初雪

2011年12月09日 09時02分36秒 | 日々の出来事・雑記

 東京で初雪が降っているらしい。まだ外に出ていないからわからないが、寒いことは寒い。
 今年の暮から正月にかけて一週間くらい、ずーっと山に閉じこもっているつもりだ。たくさん雪が降ってくれたほうがいい。ラッセルに耐えられるように、下半身をアホみたいに鍛えてきたから。
 冬山は信じられないくらい綺麗だ。しかし、生きていくには厳しい世界でもある。鹿は食べるものがなくて仕方なく木の皮を食べている。
 マクベスの「綺麗は汚い」ではないが、自分の中にある力強い生を感じるためには、死を身近に感じる厳しい世界に身を置くという一見矛盾したことが一番だと思う。
 技術と根性とお金がないから、北アルプスみたいなところはいけない。行ったら本当に死んでしまう。だから、奥秩父くらいにしておこうと思っている。

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ペットの野生化と虚無感

2011年12月08日 08時39分46秒 | 日々の出来事・雑記
 今、福島のペットが野生化しているというニュースをやっている。生き延びようと思ったら当然である。それしか方法がない。
 人間も、意外と簡単に野生化すると思う。自然に触れているとその感じがよくわかる。
 
 ニーチェは、近代合理主義の帰結として、人間はみな「末人」になるだろうと予言している。末人とは簡単にいえば、安全で豊かな生活をしているものの、ニヒリズムに侵されている人間である。満たされて強い不満はないけれど、なんとなくつまんないなぁという虚無感に包まれた人間である。
 人間が野生化すれば、生きていくことが必死でこのような虚無感はなくなる。しかし、もう野生の時代には戻れない。だから、この虚無感をどうすべきかか大きな問題になる。
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Vazquez Sounds Adele - Rolling In The Deep (Cover)

2011年12月07日 08時45分12秒 | 日々の出来事・雑記

 スペイン語でよく読めないんだけど、メキシコの三人兄弟のグループらしい。
 それにしても、ボーカルの10歳の少女の歌がうますぎる。


Vazquez Sounds Adele - Rolling In The Deep (Cover)

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問責決議と偏差値教育

2011年12月06日 09時05分24秒 | 社会・政治・思想哲学

 大臣の失言で問責決議がされるというニュースがある。うーん、なんだかなぁという感じだ。いろんな問題があると思うが、私が気になる点は2つである。
 
 1つは、素人が大臣になるな、ということだ。大臣の職を何だと思っているんだということである。素人という自覚があるなら頼まれても最初から断れ、と思う。だから、キョロキョロと自信のない態度になるのだ。自信があればあれくらいの攻撃はバシッと跳ね返せるはずだ。
 
 2つ目は、野党つまり自民党のしょうもない問責決議案である。本質的な議論を戦わせること無く、相手の落ち度を叩くことで相対的に自分たちの地位を高めていくという卑怯な戦略である。つまり、自分自身が頑張って自分の地位を高めていくという正当なやり方ではなく、相手の悪口、陰口をいうことで相対的に自分の地位を高めていくというやり方である。ありとあらゆる場所で、この卑怯なやり方が見受けられる。なぜか。
 
 私は、戦後の偏差値を基準にした教育が、そのひとつの要因ではないかと思っている。偏差値は、自分が頑張っていけばもちろん点は上がるが、相手が落ちていくことでも点は上がっていくからである。
 内田樹氏が、ブログで面白い例をあげていた。ある成績の悪い子供が、塾に行って成績をあげた。その子が先に塾で習った箇所を学校の授業でやり始めた。そうすると、大きな声で歌を歌い始めたということである。
 つまり、その箇所を級友が勉強すると、自分の優位性が崩れてしまうので、授業を妨害したわけである。その部分をやらせないということで自分の優位性を保とうという戦略をとったのだ。自分の優位性を維持するためには合理的な戦略でかもしれないが、卑怯だ。もっといえば、この戦略だとこの学級は自分以外は馬鹿なままである。クラス全員で解決しなければならない重要な問題が起こった場合、その問題を解決できないことになる。周りを蹴落とすことで自分を優位にするということは、集団で解決しなければならない問題を解決できないという結果になる。
 このような状態が今の日本なのではないかと思う。

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危機的状況について

2011年12月02日 08時55分29秒 | 日々の出来事・雑記
 危機と危険は違う。危機は生存を脅かす想定不可能な出来事である。
 人は危機的状況に陥ったときにはじめて自分にとって本当に大切なモノは何だったのかが分かる。
 また、今まで遭遇したことのないような想定外の状況に立たされたとき、どう振る舞うべきかを素早く瞬時に決断しなければならない。
 その場合、何を基準にその最善の行為を選ぶのかが問題になる。
 
 この基準を簡単に言語化できない。危機のときにこうしなさいと箇条書きにして壁に貼っておいても、ほとんど役に立たない。危機は想定外の出来事だからだ。
 しかし、言葉に出来ないとしても、ある行為を選ぶべき基準が存在することは確かだ。
 
 危機のときにどう振る舞うべきかといった抽象的な問題を、具体的な行為によって示すときに、その人はその人自身を生きていると言える。
 人は先のことは読めないし何が起こるか分からない。だから、大きな危機、小さな危機の違いはあるものの、毎日の日常が、ある意味、危機的状況にさらされているともいえる。
 
 このような状況では、自分にとって最善の行為や本当に大切なモノを選ぶことになるのだから、客観的にはきついけれど、主観的には面白いし生きてる充実感を味わえる、と思うのだけどどうだろうか。
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ファシズムの小説

2011年12月01日 08時06分08秒 | 日々の出来事・雑記

 今、村上龍の「愛と幻想のファシズム」を読んでいる。ちょうど上巻を読み終わったところだ。面白い。どう面白いのかは、全部読み終わったところで書こうと思う。
 大阪市長選で橋下さんが当選した。彼は独裁が必要だという。私もそう思う。が私にとっては関係ない。私は意思決定を自分で行うし、それを人に委ねる気はないからである。
 この小説の評判はよく聞いていたが読んでなかった。20代の頃読んでいたら、かなりの影響を受けたのではないかと思う。それくらい力のある小説だ。身震いするくらいである。
 
 ジャック・ロンドンの短編で、インディアンの年老いた父親を極寒の地に置き去りにする小説がある。弱者になった父は死を受け入れ死んでいく。私はああいう死に方がいいなぁと思っている。
 弱者は死んでいく。そこにはヒューマニズムもへったくれもない。厳しい自然の中ではそれが事実だからである。
 主人公のトウジは、弱者は死ねと言う。私が言い直せば、「弱者は死ぬ」である。それは、事実だ。

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