「黒い家」を読了。
非常に面白かった。「クリムゾンの迷宮」とどちらを薦めるかと言われれば、ちょっと迷うが、こっちを薦める。
簡単に傑作という言葉を使いたくないが、傑作といってもいいのではないだろうか。
まったく知らなかったのだけど、映画化されているとのことだ。
話を簡単にすると、生命保険の保険金をめぐる話である。
本の最後の方に書いてある経歴によれば、貴志氏は生命保険会社に勤めていたらしい。なるほど、細部にわたって話にリアリティーがある。
また、主人公が追い詰められ精神的に参っていく心理描写もうまい。
殺人について考えることがある。
人を殺したことはないが(殺してたら大変)、自分自身そういう状況になれば、意外と簡単に人を殺しうる人間ではないかと思っている。
自分自身の内面に深く入り込んでいけば、必ずそういう部分が発見できる。多分、そのように行為すべき遺伝子が、身体にインプットされているのだろう。
人類の長い歴史を紐解けば、部族同士の殺し合いは通常のことであった。
男の戦士としての側面を考えれば、戦闘的な遺伝子が組み込まれていたとしても、不合理なことでない。
私自身、自分の愛する家族を守るためだったり、戦争のときには、もちろん嫌だが、敵を殺すこもありうると思う。
戦士というものは、本来、矛盾し引き裂かれた感情を有しているものだ。つまり、自己の命を投げ出しても愛する人を守ろうとする深い愛情と相手を殺すことをためらわない冷徹な心である。
愛情が深ければ深いほど矛盾は深まる。
だが、純粋な戦士的な人間は、自分のエゴのために人殺しすることない。
自分のエゴのために他人を平気で殺すことのできるのは、サイコパス(情動欠如、良心欠如)である。
単純バカのお人好しな戦士的人間とはまったく違う。
もちろん、両者をきれいに分けることはできないから、それが混合している場合もありうるが。
何故、こんな話をするのかといえば、この本に登場する学院生(助手だったかな)の仮説が面白いなぁと思ったからである。
その仮説とは、福祉政策を充実させたことによって、サイコパスが増えたというものである。
どのような生物でも、突然変異のサイコパス的な性格をもつ個体は生まれてくる。しかし、他者を顧みないために、淘汰される。
例えば、狼の群れにもサイコパス的な個体は認められるそうだ。だが、そのような個体はリーダーをはじめとするオスたちが制裁を加え放逐される。
人間社会でもそのようなことは認められるだろう。村八分なんかはそうである。生活がぎりぎりだから、誰かが掟に従わなければ、皆が生きていけなくなる。貧しいがゆえに個人が犠牲にされるのである。
だから、自分勝手な人間は許されず排除される。そこにサイコパス的人間の生きる余地はない。
しかし、現代社会は、皆が一応飢えることなく生活できる。少しくらい自分勝手なことをしたからといって村八分をする訳にはいかない。だから、サイコパス的な性格を有していても生きていける。
むしろ、サイコパス的な性格を有している方が、相手を平気で騙せるわけだから、有利に富を築ける可能性すらある。
このようなサイコパス的人間と関わってしまった時に生じる恐怖を扱ったのが、この小説である。
そして、この本を読んだら、サイコパスと対峙した時、どう振る舞うべきかを考えざるを得なくなるだろう。
私は、この本を読んでいる間、恐怖を感じていたというより、ずーっと怒っていた。ぶん殴りたい気分だった。
だが、実は、怒りも恐怖の変形である。
私なりにサイコパスに対し恐怖を感じていたのだろう。認めたくはないが。
深いことを考えなくてもエンターテイメントとして面白い。お薦めする。
いつだったかのブログで、貴志祐介氏の「新世界より」を読んでいると書いたが、正直に言うと、途中で挫折してしまった。
作品を評価できるレベルまで読んでいないので、感想は控えておく。
ただ、この作家はかなり人気があるので、もう一つくらい読んでみようと思った。
そこで図書館にあった「クリムゾンの迷宮」を何気なく手にとって読み始めたわけである。
この小説に関して言えば、もう、最初から鷲掴みにされて、一気に読んでしまった。
「なるほど、一気に読ませるというのはこういうことなのね」と、いい勉強をさせてもらった。
話自体は、かなり荒唐無稽である。ちょっと、バトルロワイアルに似ているかもしれない。あまり詳しく書くとネタバレになるのでこの辺でやめておく。
思ったことは、状況設定がありえない感じのものでも、プロットの組立や心理描写を丁寧に描くことで、素晴らしい作品になりうるということである。
貴志氏はホラー作家ということだが、この小説がホラーかどうかは評価の分かれるところだと思う。アドベンチャー的要素も多く含まれているから。
ただ、それは、ホラー(horror)の定義によるだろう。
ホラー小説が人の恐怖を描写した小説とするなら、この小説は紛らもなくホラー小説である。
私自身、怖くなった場面が何回も出てくる。
恐怖を感じることは、単に臆病で弱い人間ということではなく、生命の危機に敏感ということである。
だから、恐怖に敏感な人間は、鈍感な人間に比べ、ある意味、危機にうまく対処出来るともいえる。
もちろん、きちんと行動できればだが。
人間は恐怖を感じると3パターンの行動をとる。
逃げる、戦う、とどまる。
どれかを選択して適切に行動すれば、危機を回避する可能性が高くなる。
しかし、恐怖を感じすぎると、パニックになって動けなくなり、その場にうずくまるだけになってしまうことが多い。
その場合、人間にとって恐怖は有害な感情となる。
だから、恐怖をどうコントロールするかが重要になってくる。
今までホラー小説とかホラー映画とかあんまり関わりを持たないようにしてきた。
どうしてかと自分自身に問うてみると、あんまりこわいものを見たくないという心理が働いているようだ。
しかし、ホラー小説を読めば、自分の中にある恐怖の形を、ありありと感じることができる。
自分が何に対して恐怖を感じるのかが分かれば、それに対処できる可能性が高まる。
ただ面白いだけではなく、そういう部分でも、ホラー小説を読むことは有意義なんだなぁと、思った。
そのことを知ったことが、この小説を読んだ一番の収穫だったかもしれない。
今、貴志祐介氏の「黒い家」を読み始めたところである。
これも面白そうだ。
宗教における神だとが霊魂だとか死後の世界について、いろいろ本を読んでみたけれど、結局、お釈迦様の教えが一番いいと思っている。
どういう教えかというと、知らないことについては語らないという態度である。
いわゆる無記という考え方だ。
霊魂だとか死後の世界だとか抽象的な議論は、現実の生活に存在する苦しみを解決するためには、役にたたないからだ。
ただ、逆に言えば、そのような議論が苦しみを取り去るのに役に立つのなら、否定する理由はない。
また、客観的に霊など存在しないけれど、統合失調症の人、麻薬を常用して幻覚を見た場合、閉所に長時間閉じ込められた人、などは実際に霊をみる。
だから、主観的には存在するともいえる。
その意味で、神やら霊やらを、私は否定しない。見たという人がいたら、そのこと自体は信じる。
だが、この点が重要だけれど、その霊のいる世界と私の世界とは共有不可能である。
厳密に言うと、世界は人の数だけあるからである。
ここを抑えておくと、「お前の肩に守護霊がいるぞ」と言われても、「そうですか、あなたの世界には、私の肩に守護霊がいるのですね」と受け流すことができる。
ただ、この神やら霊やら死んだ後の世界という概念が、人々にどのような影響をあたえるのかといったことについては、すごく興味がある。
仮想空間における幻想は、実際に人間の身体に影響を与えるのである。
それを利用して、心の闇を治療することも可能である。
逆に、それを悪用して、詐欺的な行為を行うことも可能だ。
包丁が、野菜を切ることもできるし、人を殺すこともできることと同じである。
包丁自体、良いも悪いもない。
ネットをだらだらと見ていたら、泣ける動画集というのがあった。
そんな、泣くかよ、と思いつつ見ていたら、予想に反して泣きっぱなしになってしまった。
最近、ほとんど涙なんか流したことがなかったので、冷血人間になってしまったのと思っていた。
が、まだ、人間らしい部分があってよかった。
人が泣くポイントは大きく二つあるみたいだ。
愛情(友情を含む)系と物事に対する一途な想い系。
混じりっけのない純粋で真っ直ぐな気持ちにやられてしまう。
興味のある人はどうぞ。 リンクを貼っておく。
個人的に好きな動画
状況の連続性が、先入観や固定観念を生む。
例えば、毎日通勤に通る道は、いつも同じと思っているかもしれないが、本当は毎日少しづつ違う。
しかし、私たちはそれが同じと思ってしまう。その結果、風景に注意を払うことがなくなる。
そのような連続性を基礎づける記憶が、同じ道だという固定観念をつくり上げるのである。
人間の脳は、知っていることをよく見ず、それを同じに扱う特性がある。
「シャンデリア」を10回連続で言ってもらった後に、「毒林檎を食べた女の子」はと質問すると、おおよその人が、「シンデレラ」と答えてしまう。もちろん、答えは「白雪姫」である。
頭を柔軟にするためには、たまに時間的連続性を絶ち切って、いつも見ている風景、いつも会っている人、いつも生活している部屋などを、初めて接するようにしてみることだ。
そうすると、今まで知らなかったようなことが見えてくるようになる。
今日、奥多摩の天目山に行ってきた。気持ちのいい登山だった。
駐車場にはたくさん車が止まっていたが、人はあまりいなかった。みんな、どこに行っているのだろうか。
なるほど。今ネットで調べたところ、3月4日正午から奥多摩の渓流が解禁になるとのことだ。
それで釣り師っぽいのがいっぱい居たんだ。納得。
天目山は、スギ林の最初の坂がきつい。ゆっくりと呼吸を整えながら、歩く。
すこし登ると、雪が深くなりあたりは霧に包まれ、幻想的な風景が広がっている。
天目山は、道が明瞭で迷うことはないが、道がわかりづらいところだと迷いそうだ。
今年は、奥多摩でも雪がなかなか消えない。
12時ちょっと前に一杯水避難小屋に着く。マイナス1℃。
とくに寒くはない。
昼飯にする。カップラーメンと菓子パン。それからおしるこ。
今、貴志祐介の「新世界より」を読んでいる。ちょうど、上巻の三分の二くらいまで読み終わった。
今度、この小説を題材にしたアニメが作られ、テレ朝で放映されるそうだ。
かなりの話題作で、前から気になっていた小説でもある。
この小説は、広い意味でのサイエンス・ファンタジーである。個人的にSFはあまり読まない。だからかもしれないが、今のところピンときていない。
まだ、上巻なので、これから面白くなるのかもしれないが。
小説が面白いか面白くないかは、主観的なもので、人それぞれである。もちろん、優れた小説は多くの人の心を打つが、それでもそれを面白くないという人は必ずいる。
そこで、はたと思ってしまった。面白さって何なんだろうと。
面白さを定義するのは、なかなか難しい。簡単にこうだとは言えない。
ただ、小説のリアリティーについては語れそうだ。
もちろん、リアリティーがあっても面白くないものもある。
だが、面白いものには必ずリアリティーがある。
だから、この小説のリアリティについて考えてみたいと思う。
私たちの脳は複合的な世界に生きている。
いま、パソコンの前でこの文章をタイピングしている。これは現実の世界である。
と同時に、テレビをつけてライヤーゲームを観ている。テレビの画像を観ているという点においては現実世界であるが、物語の世界に入り込んでいるところは脳内の仮想世界にいるといえる。
つまり、私は体はひとつであるものの、脳内の中では二重に世界を体験しているわけである。
この現実の世界が本物で、空想の世界が嘘ものだと、簡単に言えない部分がある。
なぜなら、脳内の仮想世界が、現実の身体に影響を及ぼすからである。例えば、ライヤーゲームを観ることで、心臓がバクバクしてくることがあるからである。
人間の身体は、外界からの変化に対応するために、その安定を保とうとする機能がある。
例えば、体温、心拍、呼吸である。
このように、身体がさまざまな機能を働かせ平衡を保とうとすることを、身体の恒常性維持能力という。
この恒常性維持は、外界の変化に対応しているわけであるが、この外界は現実世界に限らない。さっきライヤーゲームの例をあげたが、仮想世界も身体の恒常性に影響を与えるのである。
つまり、恒常性に影響を与えるその外界が、リアリティーの本質なのである。
小説は紙の上に書かれたインクのシミに過ぎない。そのシミが、人間の心臓をバクバクさせたり、呼吸を乱したりする。
「新世界より」といっしょに西村寿行の「ガラスの壁」を借りてきた。
すこし読んだが、相変わらずの小説だ。
西村寿行は、20代の頃、オーストラリアのユースホステルの本棚においてあって、暇つぶしに読んだことで知った。
なんていうんだろうか。ハードボイルド、バイオレンス、エロ小説とでもいおうか。
ユースホステルで読んだ時、今まで経験をしたことがないくらいムラムラして、あれが立ちっぱなしだったことだけ覚えている。女性を襲ってしまうんではないかと心配するくらいだった。
レイプ、陵辱などなど。とにかくエロすぎ。
小説の仮想世界が激しく私に影響を与えたということは、私にとって、この小説はリアリティーがあるということだ。
仮想世界は、現実の世界ですでに経験した脳内の記憶から生まれる。
すでにある記憶に働きかけることで、恒常性に影響を与えることができる。
つまり、小説のリアリティーは、この内部の記憶が重要な要素となる。
記憶は、人それぞれ違う。だから、リアリティーもその人それぞれ微妙に異なってくる。
逆に、仮想世界が、脳内の記憶を書き換える場合がある。
優れた小説が、現実世界では味わいないくらいの経験を与えてくれる場合などがそうである。
また、意図的に都合のいい仮想世界作り出し、他人の脳内の記憶を書き換え、自分の利益を図ることがある。それを一般的に洗脳という。
現実世界は、今この一瞬の経験であり、時間が経てば、過去の記憶となる。
過去の記憶が厳しいものであれば、それがトラウマとなることもある。しかし、過去の記憶は仮想世界のものであるから、書き換え可能である。
だから、トラウマも治せる。
優れた小説はそのような力もある。
恒常性維持機能を乱すように働きかけるには、恐怖が一番である。
快楽(恋愛)、好奇心、人間の共感能力も、恒常性維持機能に影響を与えるだろう。
ドキュメンタリー映画監督の森達也氏の「視点をずらす思考術」を読んでいたら、山羊に関する記述があった。
面白いので、引用してみよう。
モンゴルの放牧民は、数百匹の羊たちの群れの中に必ず数匹のヤギを放す。
周囲の動きに従う傾向が強すぎる羊は、変化に対応できないからだ。
足元の草を食べつくしたらその場で立ちつくす。寒い時にも動かなくなる。
ところが、ヤギは同調圧力に従わない。
草がなければさっさと他の場所に移動する。寒ければ風を防ぐ場所を探す。
ぞろぞろとその後に続く羊たちは、結果として飢えや寒さから身を守ることができる。
話の趣旨は、羊度の強い日本人にはヤギが必要というものである。
日本人は(私もたまに、ごめん)よく朝鮮人の悪口を言うが、意外と在日朝鮮人のリーダーは多い。悔しいけれど。孫さんもそうじゃなかったけ。たしか。
ただ、ヤギがいなくても、羊だけでどうにかなることもある。
どんな生物も必ず突然変異の遺伝子によって異端が生まれるからだ。
安定したときは、異端として生まれた羊は不幸かもしれない。
しかし、状況が変化した時、この異端が生き残る。
例えば、ウルトラクイズの◯×クイズで、「一足す一は二」という問題が出たとしよう。
99人が、◯の方に行って、一人だけ×に行ったとする。
答えが、田んぼの田だったら、この一人が生き残る。
だから、種にとっては、絶滅しないためにも、このような馬鹿な異端が必要なのである。
無謀なヤギの画像。面白いのでアップしてみた。
このヤギ達は馬鹿なのだろうか。
頂上の小さいのがヤギ。どうやって降りるんだろう。
ちなみに、今この画像を携帯の待受にしている。危機的な状況に陥った時、これを見るために。ほとんど詰んでると思いませんか。この山羊。
いつも元気な私だが、それでもヤル気がまったく出ないときがある。
その状態を分析してみると、「ヤル必要のない状態」、つまり、満たされた状態にあるようだ。
簡単に言うと、お腹いっぱいのときである。
もちろん、満たされるということはなかなか難しい。お金がほしいとか、車がほしいとか。
しかし、身体的欲求を満たすことはそれほど難しくない。
食欲、性欲、睡眠欲。
幸せを定義するのは難しいが、それでも一応定義してみると、「満たされた状態」と言えそうである。
ただ、忘れがちなのは、「満たされた」というのは、その前提があって、飢えた状態がなければならない。
つまり、飢えていなければ、幸せはないのである。
そこで、やる気が出ないときにお勧めなのは、プチ断食である。
本格的な断食は、難しい。だから、一食を抜くくらいにしておく。それだけで十分である。経験的に。
おなかが空いてくると、急に体と精神が活性化してくる。
人類のほとんどの時間は、食べ物を探すことにあてられていた。
だから、食べ物を探させるような状況に身を置けば、活動的になるのである。
同じように、自分を草食系から肉食系に変化させようとすれば、禁欲することが一番である。
しかし、幸せは一瞬である。満たされ続ければ、飽きる。それはもう幸せではない。
飢えた状態を、基本として、一瞬、満たされるのが、幸せなのである。
だから、貧乏とか満たされていないことを恐れてはいけない。それより、満たされ続けていることのほうが、問題である。
飢えた状態に自分自身を持っていくこと。それが、幸せになる前提条件である。
ただ、注意をしなければならないのは、観念的欲望はダメだ。限りがないから。例えば、金とか。
ポイントは、身体に働きかけることである。