久しぶりに体重計に乗ってみる。80キロジャスト。身長が173センチだからデブのように思うが、脂肪はあまりなく、筋肉量が多い。逆三角形のいい体格をしていると思う。
ただ、ここまで来るにはかなりの時間がかかった。
2015年くらいから太りだした。40代になって代謝が悪くなったのと暴飲暴食が原因だろう。
2016年5月には、88キロあった。人生で一番重い体重だ。その時の写真を撮ってある。腹周りに脂肪がたっぷりついて、かなりデブに見える。
それから、ダイエットをはじめた。
2016年の5月から、2019年1月まで体重をノートに記録している。久しぶりそのノートを見ている。
2016年の11月には体重が74キロまでになった。半年で14キロ落とした計算だ。方法はジョギングと食事制限だ。
たしかに、ダイエットには成功したといえるだろう。しかし、見た目が、太っていたときより老けて見えた。多分、脂肪と同時に、筋肉がかなり落ちたからだろう。
ネットやYou Tubeでいろいろ調べたところ、過度の有酸素運動は老けるから、筋トレがいいという人が多かった。老けるのは筋肉量が減るからである。マラソン選手に筋肉はつかない。
ただ、有酸素運動は否定しない。やりすぎは良くないというだけだ。
それで、2017年から本格的に筋トレを始める。
もともと山登りをしていて、体を鍛えることには何の抵抗はなかった。しかし、本格的なボディーメイクをするには、きちんとした勉強が必要だった。
細かくいうと大変なので、簡単に要点だけいうと、重要なのは、筋トレと食事と休息だ。
肉体労働をしているので、筋トレをハードにすると簡単に体が悲鳴を上げる。だから、休息もきちんと取らないといけない。
タンパク質の量も半端なく増やした。毎月三キロのプロテインと卵、鳥肉を中心に、それを無理やり腹に詰め込んだ。
多くの人は、体重が減ったほうがいいと思っているが、逆である。
2017年に74キロだった体重を、三年かけてやっと80キロまでもってきた。一年に2キロづつの筋肉をつけた計算だ。筋肉を6キロつけるのに3年かかったわけだ。
こういうことをいうと怒られるかもしれないが、ダイエットだけ考えたら、全然難しくない。体重なんて、簡単に落ちる。
しかし、筋肉を付け、体重を増やしていくのは本当に大変だ。
つらい筋トレをして、美味しくもないプロテインを飲んで、美味しくもない胸肉を食べなくてはならない。
ただ、続けていくと、だんだん癖になるのが不思議だ。
体は変化し、かっこよくなる。女性にモテる(たぶん)。自己肯定感が強くなる。メンタルが強くなり悩みが減る。なんにもしなくても人に一目置かれる存在になる。ケンカに巻きこまれない。体がよく動き、疲れにくい。
筋トレとそれに合わせた食事を続けるのは苦しい。しかし、そのかわりに得るものが、本当に多い。
だから、まだまだ頑張っていこうと思う。
日曜日の曇った午後、買い物が終わり、横断歩道で信号待ちをしていた。
かなり大きな道路で、トラックや自動車がブンブン唸るように走っていた。
横断歩道の信号が、赤から青に変わり、僕は道を渡った。
向こうから横断歩道を渡る人が、たくさん歩いてきた。僕はその人たちをかわしながら、横断歩道を渡った。
ふと、横断歩道の向こう側を見ると、子供が泣いていた。坊主頭の男の子だった。
たくさんの人がいたが、皆、その子供をスルーした。立ち止まったのは、僕だけだった。
何歳くらいの子供なのかわからない。たぶん小学校を上がる前だろう。保育園の年長くらい。
僕は、しゃがんで男の子の目線にあわせた。そして「どうしたの?」と訊いた。
男の子は「お母さんが、お母さんが」と何回か言った。
男の子は、整った顔をしていて、大きくてきれいな瞳をしていた。
あまりにきれいだったので、僕はその瞳に見とれていた。
男の子の瞳の中に、ちいさな水たまりができた。それが、どんどん大きくなって、水たまりがゆらゆら揺れた。
そして、キラキラした宝石のような涙が、地面にポトッと落ちた。
こんな間近で、涙が流れ落ちるのを見たのは、久しぶりのことだった。
不謹慎だが、心が吸い込まれるような美しい情景をだった。
僕は我に返って、男の子に「お母さんはどこにいるの?」と訊いた。男の子は、横断歩道の向こう側を指差した。
「あっちにいるんだね」と訊いた。男の子はうなずいた。
「自分の家はわかるの?」と訊くと、またうなずいた。
「連れてってあげようか」そう訊くと、男の子は首を横に振った。
「どうして?」と僕が言うと「お母さんを待ってる」と男の子は言った。
東京では、僕みたいな大人の男が、子供に関わっていると、誘拐だと勘違いされる。
だから、本当はみんなのようにスルーして、そのままにしておくのがよかったのかもしれなかった。
しかし、泣いてる子供をそのままにはしておけなかった。
「じゃあ、わかった。ここにいるとお母さんが来るのね」僕がそう言うと、男の子はうなずいた。
「ここは、車が危ないから、動いたらだめだよ。ひかれるからね」僕はそう言って、男の子の頭をなでた。
すこし心配だったが、僕は男の子を置いて、そこを立ち去った。
その後、男の子がひかれたというニュースはなかった。お母さんがきちんと迎えにきたのだろう。
僕はどうしてあの男の子の涙に、見とれていたんだろうか。
想像するに、あの男の子は、わがままなことをして、お母さんを怒らせ、あそこに置いていかれたのではないか。
それで、男の子はお母さんが戻ってくるのを信じて、待っていたのではないか。
お母さんは、自分のことを心配して、絶対に戻ってくるって。僕のことを置いていかないよって。
僕も母さんがすごく好きだったから、男の子の気持ちがよくわかる。
あんな顔して泣いていたことが、何回もあった。
だから、あのとき僕は、泣いている自分を見ていたのかもしれない。
これは10年以上前、僕が書いていたブログです。
今は、芸能人の不倫バッシングがすごくて、こういうことを書くと、みんなに叩かれるかもしれません。
しかし、10年前なのに、なかなかいいこと言ってるなと思い、ちょっと手直しして、再アップしてみました。
妻のことだって愛してる。本当に愛しているんです。今でも。
でもアメに最初に会った時、彼女にどうしようもなく引き寄せられたんです。渦のようにです。抵抗のしようもなかったんです。
僕には分かったんです。これは一生に一度のことなんだって。
で僕は思いました。この人と一緒になったらたぶん僕はいつか後悔することになるだろう。
でも一緒にならなかったら、僕の存在そのものが意味を失うことになるって。
ダンスダンスダンス 村上春樹
この小説のように自分の存在が脅かされるほどの激しい感情を経験したことがあるだろうかと、自分自身に問うてみる。
単純な激しい恋はあった。
しかし、自分の道徳的な価値観が脅かされるほどの恋は、あったような気もするし、ないような気もする。
ただ、このダンスダンスダンスの「僕」の気持ちは、よくわかる。
石田純一が「不倫は文化だ」といってブーイングされたことがあった。彼の名誉のために、それを意訳してみる。
社会的にいろいろな立場の人がいる。
結婚してたりすると、恋愛するのが道徳的に不適切な場合がある。
しかし、それにもかかわらず、恋に落ちるのが人間である。
そして、その時の葛藤や苦悩を表現することで、文学、演劇、映画(文化)が生み出される。
別に、単純に不倫を肯定しているわけではない。
人は立場にかかわらず、人を愛してしまうから、文化が生まれるのだ。
「愛から為されることは、常に善悪の彼岸で起こる」とニーチェは言った。
美しい言葉だ。
しかし、分かりづらい。ちょっと解説が必要だろう。
道徳とは、善悪の基準で、社会生活を営むための枠だ。みんながその枠の外に出ないように、それを守って、過ごしていく。
ニーチェは、その道徳を激しく攻撃する。
そこまで厳しく攻撃する必要はないと思うが、道徳は、生命の躍動感を失わせるという。
ただ、たしかに、愛から為されることは、道徳に反する事が多い。
たとえば、自分の娘が襲われそうになっていたら、父親は命懸けで、その暴漢と戦い、ときには殺してしまうこともある。
また、人を愛するとき、相手の立場がたまたま不適切な場合であっても、愛することを止められないときがある。
そのときの、僕たちの行為は、善悪の枠のギリギリのところにいる。
そして、たまに踏み越えてしまう。
ニーチェは、その人間の内なる愛のエネルギーを肯定する。道徳なんてくそくらえ、というわけだ。
はたしてそうなのだろうか。僕にはわからない。
しかし、それは僕たちがどう生きるかに関係している深い問題である。
自分の気持を人に伝えるってすごく難しいと思いませんか。
人を褒めよううと思ったのに、逆にけなしたと取られることもある。
また、言葉はいろんな意味が含まれているから、正確に伝わらない場合もある。
例えば、「悲しい」を一つとっても、正確に伝えるのは、なかなか難しい。
悲しさには色んな種類があるからだ。
あなたは、今、心の中が悲しい気持ちでいっぱいになっている。
その微妙なこころの動きを、どのように相手に伝えますか。
その一つの方法として、たとえること、がある。たとえは、何かを伝える上で、なかなか優れた技法だ。
ちょっと、たとえで、いろんな種類の悲しみを表現してみよう。
予定の時間の電車に乗り遅れたときのように悲しい
冷蔵庫に入れていた自分のケーキが誰かに食べられていたときのように悲しい
買うつもりで買わなかった馬券が当たっていたときのように悲しい
大好きだった女の子が結婚してしまったときのように悲しい
かわいがっていた猫が道で轢かれていたときのように悲しい
このときに重要なのは、今までの人生で感じた感情の記憶である。
こういう悲しさがあったな、またこんな悲しいことがあったねと。自分の心の中に聞いてみるのだ。
そして、記憶と、いまこの瞬間の悲しさを、照らし合わせるのだ。
それで、そのときの状況をくっつけてみる。それが、たとえだ。
たとえることで、いまの感情がより相手に伝わりやすくなる。
自分の感情をわかってもらうこと、それは相手とこころが通じ合うことだ。
こんな感じで、こころが通じ合うって、素敵なことだと思いませんか。
別にモテないわけではないが(ちょっと強がる)、今までの人生の中で本命チョコというものをもらったことがない。
義理チョコなら、たくさんもらったことはありますが(また強がる)。なにか?
今年も義理チョコもらいましたよ。
ところで、バレンタインになると、いつも考えることがある。
それはバレンタインの成り立ちについてだ。
チョコレート会社の陰謀説は、とりあえず、脇においておこう。
多分だが、バレンタインは女の子が告白するのには勇気がいるから、そういう機会を作ってあげようという意図があったのではないかと想像する。
たしかに、そういう意図はわかる。しかし、この制度は欠陥なのではないかと思う。
女の子に照れがあるから、好きじゃないけどあげるみたいな中途半端な義理チョコなどというものができてしまった。
もし、男女の恋愛を活発にしたり、チョコの売上を増やそうと思ったら、男の子が女の子にチョコを渡すやりかたのほうが、シンプルでよかったのではないかと思う。
それで、OKなら女の子がお返しするという感じだ。
誰かそういう日をつくってくれないかなと思う。
ただ、今日話したいのは、私の話ではなく、知り合いの人のバレンタインに関する話である。
私の知り合いが、高校のバレンタインのときに、別のクラスの女性からチョコをもらったそうだ。お決まりの下駄箱に入れるタイプの。
そのチョコは、手作りのチョコで、きれいにラッピングされていたが、食べたら激マズだった。砂糖の量が間違っていて(もしくは入っていなくて)、甘くなく、苦かったそうだ。
不味いチョコだし、別に好きでもない女だから、お返しもしないで知らんぷりしていたそうだ。
それで成人式のときに、そのチョコをくれた女の子に会った。かなり可愛くなっていたそうだ。それで、こいつオレにチョコ渡すくらいだから、オレのことまだ好きなのかなと思い、口説いてみたそうだ。
それで、うまいことやって付き合うことになり、結局は、結婚することになる
月日は流れ、ある時、「おまえ、オレにチョコ渡したけど、あれまずかったぞ」と言ったそうだ。
妻は「あなたにチョコなんて渡してないわよ。渡したのは〇〇君よ」と言ったそうだ。
そういえば、〇〇君と名字からすると番号が隣だ。だから、下駄箱もたぶん隣だった。
つまり、妻は〇〇君にチョコをあげるつもりで、間違って自分の下駄箱にチョコを入れたことになる。
もし、妻が間違って自分にチョコを渡さなければ、結婚してなかっただろうと彼は言った。
彼女を自信をもって口説けたのは、自分にチョコを渡した女だからだ、と彼は言った。
なるほど、それなら、結果オーライだと思う。
この話には、なんのオチもないし、教訓めいたこともない。ただ、こういうすれ違いってありなのかなと思う。
今日は何を書くかまったく決めていない。そういう日もあっていいだろう。
真夜中に、この文章を書いている。
何年かぶりにCDを取り出して、音楽を聴く。
ブラームス 2つのラプソディーop79 一番のほう
このピアノを聴いたからこういう心境になるのかそれとも、こういう心境だからこの音楽を選んだのかよくわからない。とにかくブラームスの音楽を聴くと、酒が飲みたくなる。
ブラームスはイケメンの天才ピアニストで生涯独身だった。ブラームスは何人かの女性と恋愛をしているが、彼の創作に影響を与えた女性は、恩師の妻クララ・シューマンではないかといわれている。
夫のロベルトシューマンは死に、クララは未亡人となる。クララが36歳 ブラームス23歳のときだった。
ブラームスとクララが恋愛関係にあったかどうかは謎だが、ブラームスの音楽を聴くと、くっつきそうでくっつかない微妙な心の揺れのようなものを感じる。叙情的な音楽。
この切ない感じは、好きなのに思いを遂げられないときの心の揺れなのではないかと、個人的に思う。
ブラームスの2つのラプソディーは激しい音楽だ。心の中の愛情が激しく強く、外に溢れ出ている。
ラプソディーを聴いて、ちょっとだけ心がかき乱される。夜で人恋しいからかもしれないが、まだまだ僕にもこういう感情が残っているんだなと思うと、少し嬉しくなる。
ちょっと筋トレしすぎて、テストステロンの分泌量が多くなっているのかもしれない。
You Tubeでも聴けるので、もしよかったら聴いてみてください。
小さい会社のすごくコワモテの社長さんがいる。
あの見た目だと、全然話す気がしない。すぐに逃げ出したくなる。
しかし、五分くらい話すと、ハハハといつも笑わされることになる。
あれは一体どういうマジックを使っているのだろうか。本当にすごい話術だ。真似したいと思うが真似できない。
その社長さんが、毎年暮れになるとカレンダーをくれる。「お前はこれがいいな」と言って、手渡されるのが、AV女優かグラビアアイドルのカレンダーだ。
多分、社長は僕をエロ人間だと思っているのだろう。
まあ、エロいカレンダーもらって嬉しそうな顔をしているから、そう思われても仕方がない。
しかし、今年はめずらしくエロいカレンダーじゃなかった。
「今年はこれがいいな」と言って、手渡されたのが、日めくりカレンダーだった。
すごく小さくてかわいい日めくりカレンダーだった。机のところに掛けても、ぜんぜん邪魔にならない。ちょっと気に入ってしまった。さすが社長。
ただ、日めくりカレンダーには、全くいい記憶がない。僕は筋トレも長く続けられるし、遅刻もしない。そこそこ、しっかりしているほうだ。
しかし、日めくりカレンダーだけは、最後までやりきったことがない。
正月に壁に掛けて、今年こそはきちんとめくってやると意気込んでも、結局、最後までやらずに、ホコリをかぶったままになる。
すでに人生の半分以上、生きてきた人間だが、まだ自分が完全な大人ではないような気がしている。
もし、この日めくりカレンダーを最後までめくりきれれば、本当の大人になれるのではないかと密かに思っている。
ということで、今年の目標(いくつかある)は最後まで、このかわいい日めくりカレンダーをめくりきることだ。
2月13日の時点で、なんとか、きちんとめくっている。
今年こそ本物の大人になりたい。頑張るぞ。
会話の中で、自分では気づかずに、相手を傷つけることを言ってしまう場合がある。
気が緩んでついつい調子に乗ってしまうのだ。僕はけっこうそのへんの勘が良いので、あとで気づいてフォローするのだが、それでも取り返しがつかない場合もなくはない。
話はすこし変わるが、村上春樹の小説の中で、主人公がセックスの最中にたまらなくなったら、冷蔵庫の中のきゅうりを考える、と言っている。
スプートニクの恋人だったと思う。うろ覚えです。違ったらすいません。
これは、冷静になるべきときに、冷蔵庫の中のきゅうりを考えて頭を冷やせ、ということである。なるほど。うまいことを言う。
これに対抗するわけではないが、僕は人と話すとき、皿の上に乗った絹ごし豆腐を想像することにしている。
会話の相手が、絹ごし豆腐で、言葉は指だ。
強く突いたら絹ごし豆腐は壊れてしまう。だから優しく指でちょんちょんと突くのだ。
たまに、プルプルっと揺らして絹ごし豆腐を笑わせるのもいい。
なかには外側がコーティングされて、固いものもある。しかし、中身は絹ごし豆腐だ。固いからといって油断してはいけない。強く指で突けば、やはり壊れてしまう。
言葉は、お互いを理解し、愛し合うために使いたい。間違って傷つけてはいけない。
昨日、僕は絹ごし豆腐をプルプルと揺らせたかな。傷つけていないだろうか。大丈夫でしたか。
昨日あった話です。
具体的に書くとアレなんで、枝葉をカットして、ちょっと挿し木して話を整える。しかし、大事なエッセンスはきちんと伝えたいと思う。伝えられるかな?
毎日仕事で、警備員のおじいさんに会う。背が小さくてかわいらしい顔をしている。年配の人にかわいらしいという言葉を使うのはどうかと思うが、本当にかわいらしいのだから仕方がない。
彼は僕のことをすごく気に入っている。うぬぼれのようだが、間違いない。僕もそれなりの歳で、人生経験も豊富だから、あいさつするときの感じでわかる。
そして、僕も彼のことが好きだ。好きの前に大を3つくらい付けてもいいくらいだ。あんなに善良で人の良いおじいさんは、なかなかいない。その意味で僕たちは相思相愛だといえるだろう。
それで、先週の金曜日にちょっとした事があった。
おじいさんが、財布を忘れて昼飯が食べられない、と笑って僕に話しかけてきた。
僕は、すぐに「これ食べてください。僕は他に食べるのがありますから」と言い、自分の食べるつもりだった弁当(400円)を差し出した。
おじいさんは「ありがとう。お腹がすくと立っていられなくなるから、もらう」と言って弁当を受け取った。
そして、昨日のことである。
僕は先週のこのことを忘れていた。別にたいしたことではないからだ。
僕はいつも通り、おじいさんに、こんにちはと言って、会釈した。
すると、おじいさんは僕の方にツカツカやってきて、千円を手に握らせた。
「えっ、なんですか?これ」と僕は言った。
「お弁当代だよ」とおじいさんは言った。ああ、先週の話かと思い出し、これはもらえないなと思い、おじいさんに突っ返した。
ちょっとの間、おじいさんと押し問答になった。僕が受け取らないと、おじいさんの顔が悲しそうになる。あまりに悲しそうな顔をするから、僕は仕方なくそのお金を受け取ってしまった。受け取るわけにはいかないが、受け取らないわけにもいかない状況になってしまったのだ。
僕はおじいさんに千円を払わせるつもりなんて、全くなかった。ただ、おじいさんの喜ぶ顔が見たかっただけだ。逆に、おじいさんは僕の喜ぶ顔が見たかったのだろう。
たぶん、正解は、僕が「うれしい、ありがとう」と笑ってお金を受け取ることだったような気がする。でも、それができなかった。
千円札をもらって、突っ返して、またもらってを繰り返してしまった。
僕はおじいさんが好きだからそうしたのだし、おじいさんも、多分、僕が好きだからそうしたのだろう。お互いがお互いを思いやっての行動だった。
しかし、僕はそのおじいさんのお金を受け取ったとき、すごく切ない気持ちになってしまった。
なんだろうね、この感じは。わかってもらえるだろうか。本当に人生って不思議だなぁと思う。
最近のスマートウォッチは、安くてなかなかの性能だ。心拍数や毎日の睡眠の深さが計れる。
睡眠については、個人差がそうとうあるそうだ。僕は長く寝ていはいるんだけど、深さが全然なくて、いつも睡眠が足りないような感じがしていた。近頃、とくに寝れないような気持ちになっていた。理由はここでは言わないが。
たまたま、ユーチューブのおすすめ動画にあがっていた精神科医の樺沢さんの「コーヒーのすごいデメリット」という動画を見た。
コーヒーは体にいいとの研究がたくさんあるが、午後2時以降のコーヒーは、睡眠の質を落とすようだ。
僕はコーヒーを愛しているので、だめと言われても飲んでしまうが、2時以降に飲まないくらいだったらできそう、と思った。
そこで、さっそく2時以降のコーヒーをやめてみた。たしかに、ぐっすり寝れて睡眠の質は良さそうだ。ただ、スマートウォッチをつけ忘れて、睡眠の深さは分からない。相変わらず間抜けな僕であった。
こんな感じのゆるい内容だったら、いくらでも書けるのだが、需要があるのだろうか。まあ、なくても、書いていこう。書かないよりましだよね。