風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

戦争の跫音(あしおと)がする

2012年12月23日 16時42分32秒 | エッセイ

 時代の闇がまたいちだんと濃くなった。

 先の総選挙で中道リベラル勢力が壊滅してファシズム勢力が躍進したことにより、戦争への道が開かれてしまった。
 戦後、日本がこれほど右傾化したことはない。しかも、左翼、中道をあわせても衆議院の議席数は全体の10%にもおよばず、野党がほとんどいない状況だ。個人の生命や人権を平気で踏みにじるファシストたちがやりたい放題にできる。
 サミュエル・ハンティントンは『文明の衝突』のなかで日本と中国を別の文明に分類したが、日本文明と中華文明が衝突する(というよりもむしろ、むりやり衝突させられる)危険性が現実味を帯びてきた。非常に危ない。

 日本は隣の中国と紛争になりかけの事件を抱えている。
 例の島の問題だ。
 日本と中国は互いに挑発を繰り返し続けており、両国の政府が和解する見通しは立っていない。どちらかが下手を打てば、一気に軍事衝突へ進んでもおかしくはない。

 国境の領土問題は決着がむずかしい。ましてや、無人の離島ともなればなおさらだ。そこで、解決のつかない問題は手を触れずに先延ばしにしておこうというのが、日中国交回復にあたった双方の政治家たちが出した智恵だった。日本の歴代内閣はこの方針に基づいて対処してきたのだが、数年前から、前原、石原といった一部の政治家がおかしな対応をとるようになった。決定的だったのは、もちろん、石原慎太郎が言い出した例の島の国有化問題だ。実効支配しているのは日本なのだから、中国を刺激せずに、つまり中国の面子を立てながらもそのまま黙って実効支配しておけばよかったものを、わざわざ騒ぎ立てて問題を大きくしてしまい、野田内閣が胡錦涛の面子を潰す形で国有化を強行した結果、日中関係に深刻な亀裂を入れてしまった。従来の日本政府の立場は、「領土問題は存在しない」というもので、以前は実効支配を盾にして中国側の要求を無視することもできたのだが、これだけ騒ぎが大きくなれば領土問題が存在することを認めてしまったも同然で、そうもいかなくなった。国有化は愚策としか言いようがない。

 この問題の背後には、日中を衝突させたいとするアメリカの凶暴な軍事路線勢力の思惑がある。いわゆる「中国封じ込め論」の尖兵として日本を利用し、中国を牽制しようとする動きだ。例の島の問題を騒ぎ立てる日本の政治家は、口先では勇ましいことを言いながらも、実はこのアメリカ勢力に踊らされている。もっとはっきりいえば、彼らの指令を受けて行動している。石原慎太郎がアメリカの某財団に招待された際、その記者会見の場で例の島の国有化を発表したのがいい例だろう。つまりアメリカの某財団の操り人形になって動いているわけだ。橋下もアメリカの言いなりになって動いている。以前、大阪維新の会が発表した「維新八策(船中八策)」の内容は、新自由主義の推進、TPP参加、医療保険の混合診療の完全解禁、日米同盟堅持などとアメリカの要望がほとんどだ。「維新の会」は維新でもなんでもなく、改革の皮をかぶった擬似改革政党にすぎない。自民党の補助勢力であり、アメリカが立ち上げた操り人形政党だ。

 自民党が『日本国憲法改正草案』の2012年版を発表したが、これは中国との戦争を実行しやすくするためのものにほかならない。そのためにまず憲法九十六条を改正して、衆参両院で3分の2以上の賛成が必要という改正手続きのハードルを下げ、その次に国民の主権を制限した憲法へ再改正して戦時体制を容易に作り上げることができる態勢を整えることを狙っている。

 自民党の改憲草案では、現憲法の「公共の福祉」という言葉が、「公益及び公の秩序」に置き換えられている。「公共の福祉」という概念は、みんなで力を合わせて暮しやすい社会を作るということだ。これに対して「公益及び公の秩序」はまったく反対の概念になる。公益とは国家の利益、公の秩序とは国家の秩序のことだ。つまり、国家の命令にはすべて従わなければならないということにほかならない。

 自民党の改憲案では国民の生命、人権、主権、財産、表現の自由はすべてこの「公益及び公の秩序」の制限を受ける。国家の戦争に協力しないものは、戦前のように「非国民」扱いすることができるわけだ。戦争反対のデモをしようとすれば、「公益及び公の秩序」に反するとして解散させられ(あるいは逮捕され)、戦争反対の文章をブログに発表すれば同じ理由で削除され(あるいは逮捕され)、財産は戦争のために供出させられるだろう。当然、命も「公益及び公の秩序」の制限を受けるわけだから、戦場へ駆り出されても国民は文句は言えない。国家が国民を徴兵できるということだ。

 自民党草案の憲法第九条案は、表面上は現憲法と同様に戦争放棄を掲げつつ戦争をしやすいように様々な修正が施されているが、なかでも目を引くのは次の条文の新設だ。

 (領土等の保全等)
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

 わざわざ「領土等の保全等」の条文を追加し、しかも「国民と協力して」と書いてある。この条文が例の島を念頭に置いてあることは明白だろう。「その資源」とは例の島の周囲に埋蔵された石油のことだ。そして、「国民と協力して」とは、戦争のために国民の主権を制限し、場合によっては徴兵する可能性もあるということにほかならない。

 現憲法と自民党の改正草案の根本的な発想の違いは、天賦人権説に基づくか、国賦人権説に基づくかが大きなポイントだ。天賦人権説は、人権は神様から与えられたと考える思想だ。神様を抜きにして、人間は生まれながらに人権を持っていると考えてもいい。これに対して、国賦人権説は人権は国家が与えるものと考える。第十九条を比較してみればすぐにわかる。

(現憲法)
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

(自民党改憲案)
 思想及び良心の自由は、保障する。

 一見、似たようなものに思えるが、「侵してはならない」と「保障する」では意味合いがまったく違う。
 人は生まれながらにして思想及び良心の自由を持っているとする思想では、国家が人権を侵してはならないと考える。人権は聖なるものだからだ。これに対して、国家が思想及び良心の自由を与えるとする思想では、これらの自由は国家が保障すると考える。当然、国家が与える自由は、国家にとって都合のいい場合に限られる。ちょうど、戦前の日本や現在の中国と同じように。ちなみに、第二十九条の財産権の条文でも、「これを侵してはならない」が「保障する」に書き換えられている。場合によっては財産を召し上げることもありうるということだ。

 今はまだ日本が戦争を始めるだなんてとんでもないと思っている人のほうが多数派かもしれない。戦争なんてないほうがいいに決まっている。平和がいいに決まっている。が、もし例の島で軍事衝突でも起きれば、これほど右傾化が進んで極右(ファシスト)が幅を利かせている状況では、あっという間に戦時体制ができあがってもおかしくはない。戦前と同じように大手マスコミが戦争の方向へ世論を誘導するだろう。外国と軍事衝突を起こして混乱した時ほど、為政者にとって国内の統制を強めるチャンスはほかにない。人々が最も団結しやすいのは外に「敵」がいて、それに立ち向かわなければならない時なのだ。軍事衝突が発生すれば国民が国家の統制を受け容れやすい状態が出現して危機感に駆られた人々やナショナリズムを煽られた人々が戦時体制に同意することは大いにありえる。これは日本であろうと、中国であろうと、他の国であろうとどこの国でも同じだ。

 歴史の転換点は、一九八九年にベルリンの壁が崩壊した時のようにあっけないほど急にやってくる。そして、ベルリンの壁が壊れたのと逆のこともまた、あれよという間に起きてしまうだろう。
 戦争の跫音(あしおと)が後ろから聞こえてきた。



 了


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