タイのある町でゲストハウスに泊まった時のことだった。夜、テラスで日本人のパッカーたちとお喋りしていたら、
「半ケツっすよ。半ケツっ!」
と、ドミトリー(相部屋)の同室の男の子が興奮して駆けこんできた。
「どうしたの?」
僕はわけがわからず聞き返した。
「白人の女の子が半ケツを出して寝てるんすよ!」
男の子は今にも鼻血を出しそうだ。
そんなことってほんとうにあるのだろうかと思いながらドミトリーへ引き返したら、素っ裸にシーツだけまとった二十歳くらいの白人の女の子が、うつぶせになりながら半ケツを出していた。彼女はすやすや眠っている。どうやら、寝返りを打ってお尻が出てしまったらしい。
そのドミトリールームには、住み込みで働いているタイ人の従業員の男の子が二人、毎晩床にマットレスを敷いて寝ていた。彼らはマットレスに腹ばいになり、かっと目を見開いて彼女の白いお尻を見つめている。「食い入るような目つき」という表現はこのような顔をいうのだろう。今にも噛みつきそうだ。そんなにお尻を見たいのかと思うと、歯を食いしばっている彼らが痛ましいような、ほほえましいようななんだか妙な気持ちになってしまった。やがて、女の子はまた寝返りを打ち、きれいなお尻はシーツに隠れた。それでも、タイ人の男の子たちはまだじいっと見つめ続けている。彼らは自分の気持ちに正直だった。
ところで、中国の路上を歩いていると半ケツを出している娘をよく見かける。たいていは小さな食堂で働いているウェイトレスだ。店の前の路上にたらいを出してしゃがみこみながら野菜や皿を洗っているのだけど、ジーンズがずりさがりお尻が半分見えている。
はじめて見た時はさすがにびっくりしてしまった。
半ケツ娘は自分がお尻を出していることにも気づかず、せっせと食器を洗っている。ジーンズからお尻がはみ出ていることなどまるで気にしていない。ドミトリーで見かけた女の子とはわけが違う。白昼堂々、天下の公道でお尻をさらしているのだ。
半ケツ娘は彼女一人だけではなかった。別の場所でも半ケツを出しながら洗い物にいそんでいる女の子をちょいちょい見かける。だけど、お尻を出しているからといって、べつにいやらしくは見えない。道行く人は、誰もじっと彼女たちを見たりしない。半ケツ娘の姿は路上の風景に溶けこんでいる。
中国の山奥を旅していた時、ある女の子と仲良くなった。彼女もやはり半ケツを出してせっせと洗濯している。どうしようか迷ったけど、やっぱり言ってあげたほうがいいだろうと思った。こういうのは、注意するほうが気恥ずかしいものだけど。
僕はなくべく彼女のお尻を見ないようにしながら自分のお尻を指して「出ているよ」と合図した。彼女は「あらっ」と恥ずかしそうな顔をしてジーンズをあげる。ようやくお尻が隠れてくれた。お尻を見られれば恥ずかしいという意識はやはり持っているようだ。
ところが翌日、彼女はまた半ケツを出して洗い物をしていた。
しょうがないのでもう一度さりげなく注意したら、彼女は「なに見てんのよ」と表情をくもらせる。別に見たくて見たわけじゃない。そんなものを見せられては目のやり場に困る。知らない人なら無視できるけど、知り合いだとそうもいかない。
困ったなと思いつつも、それからは半ケツを見てもなにも言わないことにした。お尻を出しても誰もとがめないのがこちらの習慣なら、それにしたがうよりほかにない。彼女とはそれでけんかになったりしなかったからよかったものの、下手に注意して無用な摩擦を生むのはさけたいところだ。
今では誰かが半ケツを出していてもそれほど気にならなくなった。でもやっぱり、自分のお尻くらいきちんとしまっておいてほしいと思ってしまう。
おおらかといえばおおらかなんだけどなあ。
ひょっとして、僕がこだわりすぎているのだろうか?
あとがき
エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。(2010年8月19日発表)
http://ncode.syosetu.com/n8686m/10/