何十年かぶりで童話『楽しいムーミン一家』を読み返している。
幼稚園の年少組だった頃、毎朝、アニメの『一休さん』か『ムーミン』を観てから送迎バスに乗っていた。あの頃は、毎日アニメを観ていたような気がする。ちなみに、アニメ版の新しいバージョンがあるそうだけど、僕が見ていたのは七十年代半ばに再放送していたものだ。
『楽しいムーミン一家』を読んでいると、ムーミン役を担当していた岸田今日子さんの声が自然と脳裡に響くから不思議だ。ムーミンパパの声も、ノンノン(原作ではスノークのお嬢さん)の声もしっかり覚えている。アニメ版で描かれていたムーミン谷の景色やムーミンの家が目の前に甦る。とても素敵な風景だった。今度生まれ変わる時は、あんなところに生まれ落ちたい。
第二章でこんな話がある。
魔法の帽子のなかへ入ったムーミンがとても醜い姿に変わってしまい、ノンノンもスナフキンも、誰も彼がムーミンだとわからない。ムーミンは「僕だよ。わかってよ」と言うのだけど、「嘘つき」と邪険にあしらわれてしまう。途方に暮れて怯えきったムーミンは母親に救いを求め、あなたなら自分の息子がわかるはずだと訴える。ムーミンママはもとのムーミンとは似ても似つかない姿になりはてたムーミンの目をじっと覗きこみ、
「そうね、おまえはたしかにムーミントロールだわ」
と自分の息子を認めた瞬間、ムーミンにかかっていた魔法がとけて元の姿へ戻った。
童話とはいえ、なんて智慧のあるお母さんだろうと感心してしまった。
これはとても示唆に富んだ話だと思う。
子供がほんとうに困った時、母性の助けなしでは、どうにも切り抜けられなくなってしまうことがある。自分の姿をきちんとわかってくれる存在が必要だ。母親に見つめてもらい、認めてもらうことで、子供はほんらいの自分を取り戻す。「おまえはわたしのこどもだ」と言ってもらえるだけでいい。
逆に言えば、母性が試される場面なのだろう。
ひと口に子供を認めるといっても、簡単なようでなかなかできないことかもしれない。「おまえはわたしのこどもだ」という言葉に、自分の子供を思い通りにしようとする打算や欲得があってはいけないから。それでは、子供を醜い姿に変えてしまう魔法と同じになってしまうから。
たぶん、付け焼刃ではだめで、ふだんから子供の姿を見つめていなければ、いざという時に誰が自分の子供なのかを見分けることもできなければ、承認を与えることもできないだろう。もっともムーミンママはそのために特別な訓練を積んだわけではなく、ふだんの生活のなかで自然に母性を鍛え、母性の智慧を養ったのだと思う。それは、ムーミン谷の素朴な暮らしだからこそできることなのかもしれないけど。
子供の頃はただ面白がって読んでいた『楽しいムーミン一家』だけど、ムーミンママは素敵なお母さんだとあらためて見直した。こんな素晴らしいキャラクターが登場するからこそ、ムーミンシリーズは世界中で愛されているのだろう。そして、子供が求めているのは、強くてあたたかい母性なのだとあらためて感じさせられた。それさえあれば、たとえどんなことがあっても子供は困難を乗り越えられるのだと思う。
あとがき
エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。ムーミンを観るとなんだかほっとするんですよねえ。(2010年8月15日発表)
http://ncode.syosetu.com/n8686m/9/
幼稚園の年少組だった頃、毎朝、アニメの『一休さん』か『ムーミン』を観てから送迎バスに乗っていた。あの頃は、毎日アニメを観ていたような気がする。ちなみに、アニメ版の新しいバージョンがあるそうだけど、僕が見ていたのは七十年代半ばに再放送していたものだ。
『楽しいムーミン一家』を読んでいると、ムーミン役を担当していた岸田今日子さんの声が自然と脳裡に響くから不思議だ。ムーミンパパの声も、ノンノン(原作ではスノークのお嬢さん)の声もしっかり覚えている。アニメ版で描かれていたムーミン谷の景色やムーミンの家が目の前に甦る。とても素敵な風景だった。今度生まれ変わる時は、あんなところに生まれ落ちたい。
第二章でこんな話がある。
魔法の帽子のなかへ入ったムーミンがとても醜い姿に変わってしまい、ノンノンもスナフキンも、誰も彼がムーミンだとわからない。ムーミンは「僕だよ。わかってよ」と言うのだけど、「嘘つき」と邪険にあしらわれてしまう。途方に暮れて怯えきったムーミンは母親に救いを求め、あなたなら自分の息子がわかるはずだと訴える。ムーミンママはもとのムーミンとは似ても似つかない姿になりはてたムーミンの目をじっと覗きこみ、
「そうね、おまえはたしかにムーミントロールだわ」
と自分の息子を認めた瞬間、ムーミンにかかっていた魔法がとけて元の姿へ戻った。
童話とはいえ、なんて智慧のあるお母さんだろうと感心してしまった。
これはとても示唆に富んだ話だと思う。
子供がほんとうに困った時、母性の助けなしでは、どうにも切り抜けられなくなってしまうことがある。自分の姿をきちんとわかってくれる存在が必要だ。母親に見つめてもらい、認めてもらうことで、子供はほんらいの自分を取り戻す。「おまえはわたしのこどもだ」と言ってもらえるだけでいい。
逆に言えば、母性が試される場面なのだろう。
ひと口に子供を認めるといっても、簡単なようでなかなかできないことかもしれない。「おまえはわたしのこどもだ」という言葉に、自分の子供を思い通りにしようとする打算や欲得があってはいけないから。それでは、子供を醜い姿に変えてしまう魔法と同じになってしまうから。
たぶん、付け焼刃ではだめで、ふだんから子供の姿を見つめていなければ、いざという時に誰が自分の子供なのかを見分けることもできなければ、承認を与えることもできないだろう。もっともムーミンママはそのために特別な訓練を積んだわけではなく、ふだんの生活のなかで自然に母性を鍛え、母性の智慧を養ったのだと思う。それは、ムーミン谷の素朴な暮らしだからこそできることなのかもしれないけど。
子供の頃はただ面白がって読んでいた『楽しいムーミン一家』だけど、ムーミンママは素敵なお母さんだとあらためて見直した。こんな素晴らしいキャラクターが登場するからこそ、ムーミンシリーズは世界中で愛されているのだろう。そして、子供が求めているのは、強くてあたたかい母性なのだとあらためて感じさせられた。それさえあれば、たとえどんなことがあっても子供は困難を乗り越えられるのだと思う。
あとがき
エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。ムーミンを観るとなんだかほっとするんですよねえ。(2010年8月15日発表)
http://ncode.syosetu.com/n8686m/9/