職場でおいしい利権を得た場合は別として、中国人の若者は長くても三年くらいで仕事を変える。
アシスタントのアニメちゃんもそのうち辞めたいと言い出すんだろうなと思っていたけど、とうとう「辞めたいですぅ」と言い出した。
「野鶴さん、早くわたしの代わりのアシスタントを入れてください。わたしが一か月くらいで育てます」
と、日本料理屋でランチを食べ終わった後、アニメちゃんが切り出した。
「あのな、俺が辞めるまでお前も辞めるなって言っているだろっ。それにな、お前がここまで育つのにどれだけ時間がかかったと思っているんだ。入ってきた時、お前はほんとに子供だったんだからな。わかってるだろ。一か月で別のアシスタントを育てられるはずがないだろう」
「わたしより日本語が上手で優秀な人はいくらでもいますから、大丈夫ですぅ」
と言って、いかに自分がだめなのかを並べ立てて強調する。
交代要員を育てるからと言うぶんだけ、ほかの中国人とは違う。普通は、辞めたければ引き継ぎのことなど考えずにさっさと辞めてしまう。気を遣ってくれているんだなとは思うのだけど、辞められては困る。ヘッドロックをかけたりまでして手塩にかけて育てたアシスタントだ。社会人二年生にしてはよく仕事をこなしてくれる。お転婆娘で手間がかかったぶんだけ、かわいがってもいた。大袈裟だけど、彼女がいなくなれば、僕はルパン三世のいなくなった銭形警部のようにへたってしまうかもしれない。
「どうして辞めたいんだ?」
僕は訊いた。
「わたし、こう見えても可愛いものが好きなんです」
「それは知ってるよ」
「だから、可愛いものに関係があるところで仕事がしたいんですぅ。今の仕事には興味が持てないです」
そう言う割には大量の仕事をせっせとこなしてくれている。
ここ二週間ばかり、ほぼ毎日ふたりで会議室に籠もって複雑なプレゼン資料や見積書を作っていた。協力会社への問い合わせや細かいデータの整理はすべてアニメちゃんがやってくれた。やっとのことで仕上げた資料をもとに顧客へのプレゼンを済ませ、業務を任せてもらえる内諾を得てほっとしたその帰り道だった。
「職場環境とか、待遇とか、会社の将来性はどうだ?」
僕は質問を続けた。
「職場環境は問題ありません。この会社はいい人が多いですから。待遇は……兄妹のなかではいちばん給料が安いです。親戚には大学を出たのにどうしてそんな安い給料で働いているんだって言われます。会社の将来性は――ないですよねぇ」
たしかに、アニメちゃんのいうことはあたっている。
「まあ、お前の言うとおりだな。給料が安くて会社の将来性もないけど、いい人が多いからわりと働きやすいよな。だから僕もここで働いているんだよ」
「辞めたいですぅ」
「だめ」
「だめといってもだめですっ」
アニメちゃんは元気よく僕に逆らって、それからしょぼんとした目をする。彼女のしょんぼりさには「辞めてもいいよ」と言ってもらえなくて残念なのにくわえて、「お父さんの言うことは聞かなくてはいけない」といったような感じがすこし入っている。
お勘定を払う段になってアニメちゃんは財布を出して自分が払おうとした。
「なにしてんだよ」
僕が言うと、
「いつも野鶴さんにご馳走になってばかりだから、たまにはわたしがご馳走します」
とアニメちゃんはしおらしく言う。僕に借りを作りたくないのだろう。
「僕が払うよ。おごるのは辞めるとか辞めないとかの話とは関係ないから」
僕はそう言ってウェイトレスに勘定を渡した。
もちろん、「会社を辞めちゃだめ」などという権利は僕にはない。自分の人生は自分の生きたいように生きなくてはいけない。彼女の人生は、世界でたった一つだけの道なのだから。
困った。
(2013年3月2日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第225話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/