暗いと後ろ指を指されながらも、さだまさしさんの歌をよく聴いていた。
「オフコースだって暗いやん。『さよなら』って連呼するやろ」
と反論しても、誰も賛同してくれなかった。
さださんの歌詞の漢字の使い方はちょっと独特だ。
たとえば、「幸せ」と言う言葉を漢字で表記する時、「倖せ」と人偏をつける。
いい表現だなと思った。
人偏のついているほうがあたたかい感じがする。
そこで調べてみると、人偏の「倖せ」はたとえば「僥倖《ぎょうこう》」といったような思いがけない幸いの時に使われる漢字だとわかった。ふつうの「幸せ」とはちょっとニュアンスが違う。
考えてみれば、倖せというものは奇蹟なのかもしれない。どこかに落ちているものでもないし、探したまわったからといって見つかるとは限らない。たとえ、手に入れても、いつまでも続くかはわからない。壊れやすいものだ。
だからこそ、倖せは思いがけないものだし、大切なものなのだとも思う。
山口百恵さんに提供したヒット曲『秋桜』は、この漢字で「コスモス」と読む。
コスモスは英語の名前。和名は「秋桜」と書いて「あきざくら」と読んでいた。「秋桜」と書いて、そのままコスモスと読ませたところがミソだ。漢字には熟字訓といって、音読み、訓読みに関係のない読みを与える方法がある。たとえば、「七夕(たなばた)」もそうだし、「二十歳(はたち)」もそうだ。「秋桜」という漢字に英語名の熟字訓を与えたことで、コスモスのイメージがぐっと強くなった。
熟字訓というものは、大和言葉に漢字をあてはめるものであって、英語の言葉を熟字訓として使うのは日本語の正しい使い方ではない、という反論もあるかもしれないけど、言葉はそもそも生き物だ。世につれて変化する。新しい表現を「発明」するのも表現者の大切な仕事だ。それこそが創意工夫なのだから。
『津軽』という曲には「蕭々(しょうしょう)」という表現がある。
物寂しい様のことだそうだ。
漢字を見ただけでもなんだかさびしそうだ。「蕭」はもともとよもぎの一種を表す漢字だったようだ。よもぎがさびしく風に揺れるところから、こんな表現ができたのだろうか?
辞書には「蕭々と風が吹く」、「雨が蕭々と降る」といった事例が載っている。
「知る」と書くべきところを「識る」という書き方もあるのだとさださんの歌詞からおそわった。一般的には「知る」と書いて十分に通じるのだけれど、「認識した」ということを強調したい場合、「識る」と表現する方法もある。
厳しい局面に立たされた時や、日常生活の何気ないことでも、はっとおどろいて今まで気づかなかったことに、気づかせられることがある。今まで認識していなかったことを認識させられる時がある。そんなシーンを描く時は「識った」と書きたくなる。
まだまだほかにもいろいろあるけど、これくらいにしておこう。
さださんの歌詞を読んでいてわかったのは、漢字には一般的な用法以外にいろんな表現方法があるし、いろんな工夫の仕方があるということだ。
漢字なんてどうでもいいじゃない、と思う人がいるかもしれない。
できるだけ漢字を使わずにひらがなにしたほうがいいと考える人もいるだろう。
人それぞれの考え方だから、自分の好きな方法で書けばいいと思うけど、漢字にしかできない表現がある。ところどころ、漢字を工夫して小説を書くのも面白い。
(2011年11月5日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第136話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/