風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

乗り合いバスの混み具合にみる経済発展の度合い(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第137話)

2012年11月09日 22時28分59秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 経済がほとんど発展していないところへ行けば、バスがめちゃめちゃ混んでいる。
 ラオスの田舎町からバスに乗った時、十九人乗りくらいのマイクロバスに三十人以上、すし詰めになっていた。しかも、その状態のままで三四時間くらい走ったりする。路線によっては、通路に風呂場で使うような小さなプラスティックの椅子が並んであって、それに坐ったこともあった。坐りにくいうえにでこぼこ道を走るので、バスが揺れるたびにプラスティックの椅子が歪んで右へ左へと体が大きく傾き、何度も倒れそうになりながら乗った。親切な地元のラオス人のおじさんが僕の肩をがしっと摑んで支えてくれたりもした。
 バスの需要はあるのだから、もっと走らせればいいのにと思うのだけど、いかんせんバスの台数が足りない、というか、バスを買うお金がない。道も整備されていないので、ちょっとした距離を走るにも時間がかかる。きちんと舗装して整備した道なら一台のバスで一日二往復くらいできるのだけど、土道では一日一往復が関の山だ。時間もかかるし、運転手もぐったりしてしまう。それでバスの本数が少なくなってしまい、混んだバスにみんな乗ることになる。
 経済が発展してくると、バスを買うお金ができるので、新規参入業者が増えてバスの台数が増える。もちろん、経済が発展するにつれて乗客も増えるから、バスを走らせれば、走らせたぶんだけ儲かる。バスは相変わらず混んでいるけど、本数が増えて便利になる。
 発展の過程では制度が整備されていないので、さまざまな抜け道がある。
 中国の場合、中・小型のバスは、個人事業主のバス運転手が多い。バスは自分の持ち物で、バス会社に所属してある路線の業務を請け負う。いわゆる、オーナードライバーだ。運転手の女房が車掌を務める。
 始発のバスターミナルから乗る乗客の切符は、ターミナルの切符売場で販売するのでバス会社が把握できるけど、途中乗車のぶんまでは把握できない。そこで、バスターミナルを少し出たところに乗客が待っていて、車掌と料金を交渉して乗車する。バスターミナルから乗るよりも、安い料金で乗ることができる。もっとも、座席がいつも空いているとは限らないので来るバスが全部満席でけっこう待たされることもしばしばだ。それでも、待った分だけバス代が安くあがる。途中乗車分の収入は、当然、オーナードライバーの実入りとなる。バス会社も黙認していたというか、それがルールだったみたいだけど、ただ事故が起きたときは厄介だ。定員オーバーが発覚すれば、バス会社もドライバーも政府の交通当局や裁判所に責任を問われることになる。
 新規参入が増えすぎると、今度はバスの供給が過剰気味になる。十年前の中国がそんな感じだった。
 オーナードライバーにはノルマがあるから、始発のターミナル駅である程度乗客を乗せなければならない。そこで、出発時間をすぎても発車せずに乗客がくるのを待っていたりする。そうすると次のバスの乗客を取ってしまうことになるので、次のバスも乗客が足りずに出発を延ばす。ひどい場合、次のバスの発車時刻間際になってようやく出発したことがあった。当然、ダイヤが乱れる。
 問題はダイヤの乱れだけではない。
 乗客不足のまま出発することが多くなれば、バス会社の収入が減る。そこで、バス会社は市内で拾った乗客については、郊外のチェックポイントで乗客数を報告させたうえでそのチェックポイントで正規の切符を買わせるようにして、運賃がオーナードライバーの懐へ入るのを防ぐ。到着地近くの郊外のチェックポイントでも乗客数を報告させ、途中乗車して到着地まで行く客については、そこで切符を買わせる。長距離路線の場合、中間の都市のバスターミナルでも同じようにして、正規の切符を買わせるようにする。こうなると車掌の存在意義がなくなるので、かあちゃん車掌が減る。オーナードライバーといっても、自分自身の懐へ直接入る収入が激減するので、ほとんどサラリーマン運転手と変わらない。バスで大儲けした時代は終わりを告げる。
 モータリーゼーション、つまり自家用車の普及が始まれば、マイカーで異動する人が多くなるのでバスの乗客は減り始める。これが今の中国だ。長距離路線の需要はまだまだ旺盛みたいだけど、広州の郊外では座席の空いたバスを見かけるようになった。中国の場合、貧しい農民や出稼ぎ労働者が多くて車を買えない人が多いからバスの役割は今でも大きいけど、そのうち、日本みたいに地方のバスは通勤時間帯以外はけっこう空いているような状態になるのかもしれない。もっとも、春節(中国の旧正月)や十月の国慶節の時は、何億人もの人々が「民族大移動」するから、いくらバスを走らせてもぜんぜん足りないわけだけど。
 経済の発展していない国では、がらがらのバスを走らせる余裕はない。ある程度発展した国でないとできないことだ。需要の少ない時間帯でもバスが走るということは便利さの証でもある。空いたバスをみるたびに、中国もそれなりに発展した国になったんだなあと思う。


 

(2011年11月12日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第137話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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