風になりたい

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民主化運動家のノーベル平和賞受賞と中国文明の限界(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第35話)

2011年06月16日 07時40分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
(2010年10月9日発表)

 
 ゆうべ、中国の民主化運動家の劉暁衡氏が二〇一〇年度のノーベル平和賞を受賞した。
 一夜明けて今日、さっそく知り合いの中国人に、
「中国人がノーベル平和賞を取ったんだけど、知ってる?」
 と、聞いて回ったのだけど、案の定、ほとんど誰も知らなかった。
 ネットで検索しても、人民日報がごく短い記事を載せているだけだ。人民日報は中国共産党の機関紙だから、庶民はほとんど読まない。ちなみに、広州でわりと読まれている地元紙「南方都市報」の一面は、「ホテルの朝食で中毒。広州の女性が四川で死亡」というものだった。一面はおろか、紙面のどこにもノーベル平和賞のことは載っていない。中国当局が報道管制を敷き、劉氏の受賞を報道させないように指示したのは間違いない。
 劉暁波氏の名も、中国の庶民は知らないようだ。日本のニュースサイトの画面を見せても、「この人は誰?」という反応しか返ってこない。もっとも、彼は反体制活動家だから、一般の人々が知らないのもむりもないだろう。中国政府としては人民に知られたくない存在だ。
 ともあれ、中国国内では、劉氏のノーベル平和賞受賞はなかったことになっている。
 僕の知り合いのある日本人は、
「名誉なことなのに、どうしてみんな知らないんだろうねえ?」
 と首を傾げたのだけど、おおかたの中国人はこの喜ばしいニュースを知らされていない。
 新聞の報道などで知っておられる方も多いだろうけど、劉氏は天安門事件以来の民主化運動の活動家だ。
 天安門事件後に逮捕された時の罪状は「反革命罪」。釈放された後も、中国国内にとどまって民主化運動を続けたため何度も逮捕された。二〇〇八年には大幅な民主化を訴えた「08憲章」の起草に加わったのだが、このことによって逮捕され、懲役十一年の刑を宣告された。罪状は「国家政権転覆扇動罪」。現在も獄中にいる。
 劉氏のノーベル平和賞受賞に関して、中国外務省のスポークスマンは当然声明を発表した。
「劉氏は中国の法律を犯した犯罪者である。このような人物に授与することはノーベル平和賞を冒涜する行為だ」
 簡単にまとめれば、このようになる。「悪法も法」だから、法を犯せば犯罪者ということになるけど、このような発言を詭弁《きべん》という。

 基本的に、民主主義という思想は中国文明とは相容れないものだ。
 歴史的にみて、中国は強力な中央集権による専制政治を発展させてきた。現在の中国共産党も、この中国文明の枠のなかで政権を運営している。中国共産党は絶対であり、異論は許さないという専制政治だ。彼らの統治技術は非常に巧妙で、あらゆる反権力の芽を潰す。究極の独裁といってもいい。
 これに対して、民主主義は権力を分割し、すべての人間に「一票」という権力を与える。誰でも自分の意見を自由に発表できるし、全員が選挙に参加できる。もし行政がおかしなことをすれば異議を申し立てることも可能だ。日本でいえば、日本人の成人は誰でも「一票」という名の一億分の一の権力を持っていて、投票所へ行ってそれを行使することができる。つまり、民主主義は究極の分権だ。
 どちらがいいかは言うまでもない。
 民主主義は、人間一人ひとりの尊厳を大切にする優れた思想だ。人類が生み出した叡智、人類の理想といってもいいかもしれない。もちろん、民主主義にはいろんな問題があるし、様々な欠陥を抱えているのだけど、もしかしたら、今の人類は自らが生み出した叡智や理想を適切に理解して運用するだけの能力がまだ備わっていないだけなのかもしれないとふと思う。
「究極の独裁」と「究極の分権」。水と油だ。
 この両極にあるふたつのものが手をとりあうことはきわめてむずかしい。

 劉暁波氏はノーベル平和賞にふさわしいだけの実績を残している。
 何度牢屋へ放りこまれても、そのたびに再起して民主化運動を続けるなどということは、並の人間にはまねできないことだ。
「ノーベル賞を冒涜するものだ」という中国政府の子供じみた声明は、人類の理想を冒涜するものだ。また、中国外務省のスポークスマンは声明のなかで、
「ノルウェーとの関係が損なわれる」
 と発言していたけど、こんな恫喝をするだなんて、これではある広域組織となんら変わらない。
 人間は金儲けだけをすればいいというものではない。
 権力闘争を勝ち抜いて、権力を握ればいいというだけでもない。
 人間性の向上と発展。これこそが人類の課題ではないだろうか。民主主義は真の意味での人類発展の鍵を握る思想の一つだ。
 さらに言えば、あのような幼稚な声明は、中国文明の限界を自ら露呈するものだった。
 今の中国は高度経済成長が続き騎虎《きこ》の勢いを見せている。だけど、それはたんに金儲けがうまくいっているというだけの話であって、中国が他国のお手本になるようなものを提示できるのかといえば、そうではない。
 かつて、中国は東洋的な近代国家であり、近隣諸国の手本となる国だった。
 日本の場合、中国の法律制度を見習って大宝律令(701)を制定し、平城京(710)や平安京(794)は唐の都・長安を模倣して建設した。中国は政治のあり方、文明のあり方の教師役だった。いろんな意味で「先進」を行く国であり、中国文明は最先端の文明だった。それを思えば、今の状態はお寒い限りだ。古代の中国文明はともかく、今の中国文明には他国や他民族が真似るべきものはなにひとつない。今の中国文明にはなんの理念も理想もないからだ。
 中国文明は、よくいえば「おじいちゃんの文明」と言えるかもしれない。成熟の段階を通り越し、完成した文明だ。一つの完結した形をもつ文明だ。だが、悪く言えば、「終わった文明」だ。もうどこにも発展の余地がない。文明の創造力は枯れはて、袋小路へはまりこんでしまった。
 劉氏のノーベル平和賞受賞は、そんな行き詰った中国文明にちいさな風穴をあけるものだ。東洋的な古い近代が行き着き、がらんどうになってしまった中国文明に新しい命を吹き込むための、その魁《さきがけ》となるものだろう。
 ただ、民主化に限っていっても、今後の道のりは決して平坦ではない。いささか大袈裟な物言いになるけど、劉氏が戦っているのは中国文明の宿痾《しゅくあ》そのものだ。上から下まで権力の甘い汁を吸ってゆがんだ国家を築き、庶民を痛めつける政治屋や腐敗役人を一掃するのは容易な作業ではない。中国文明そのものに、そんな腐敗を無条件に肯定する土壌がある。今回の受賞によっても、中国国内の状況はなにひとつ変わらない。中国の民主化が進展するわけでもない。
 それでも、劉氏の受賞はうれしいニュースだ。
 たとえ状況がまったく変わらないとしても、いちばん大切なのは理想を訴え続けることだ。それが明日の希望へつながるのだから。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第35話として投稿しました。2010年10月9日発表です。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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