彼女とはじめてデートする時は、手をつなぎたいものだ。
手をつなげば、ときめきの風がふたりをつつむ。世界はこんなに輝いているのだと気づいたりもする。
だけど困ったことに、手をつなげば自然とあそこが膨張してしまう。そう、男の子の大事な部分が。
「不潔」などと言ってはいけない。
これはどうしようもないことだ。
意志の力ではどうにもならない。
「鎮まれっ!」と念じてみても、かんたんに鎮まってくれるものでもない。
だったら、手をつながなければいいじゃないかと言われそうだけど、そうもいかない。やっぱり、ルンルン気分で手をつなぎたい。いっしょに歩いてくれる人がいるというのは、なにより嬉しいことだから。
冬場なら、ジャンパーかコートで隠せるのだけど、夏場は隠しようがない。見られたらどうしようと思うと恥ずかしくしょうがないのだけど、なかなか引っこんでくれない。困ったものだ。
どうやら、恋をすることと体を求めることはイコールのようだ。恋は求めることだから、それが自然なのかもしれない。それが動物としての人間の本能なのだろう。
ところが、青春小説や恋愛小説では、こんな場面はたいてい描かれない。
僕も初デートのシーンを描く時は、そんなことはカットしてしまう。
まず第一に書こうとも思わない。無意識のうちに避けているのだと思う。彼女の掌のぬくもりは心をこめて丹念に描くのに、彼の体について描かないのは片手落ちだと思うのだけど、やはり描かない。
初デートのシーンにそんな描写を入れたらどうなるのだろうと空想してみるけど、
――やっぱり美しくないよなあ。
とか、
――描くのもなんだか照れくさい。
と思ってしまう。
初デートのシーンは、登場人物の想いを思う存分描くことができるから結構盛り上がる。恋愛をはじめたばかりの初々しい恋人同士というのはいいものだ。ふたりの後姿には倖せがいっぱいつまっている。ふたりの心のなかは楽しい未来だけだ。それなのに、あそこが膨張したなどと描写しては、せっかくの初デートがなんだかいやらしくて胡散臭いものになってしまうような気もする。
もちろん、これは僕だけの考え方かもしれない。僕が「膨張」を描かないのは、その小説の世界観を壊さずに「膨張」を描写する力量がないだけのことだ。いろんな見方があっていいし、そうあるべきだと思う。
このことは現実が小説に反映されないほんの一例にすぎない。無意識のうちに醜いものとして遠ざけて描かれないことは、ほかにもたくさんあるのだろう。精一杯描写しているつもりで、その実、それとは知らずにタブーにしてしまって描かないことだらけなのかもしれない。
もちろん、小説は現実をそのまま写し取れば成立するというような単純なものではないけれど、こうした描かれないリアリティーを追究すれば、より深い作品を書けそうな気がする。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第36話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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