なぜという問いかけは、とても切ない。
どうしようもないことだとわかっていながら、答えはもう出ているのだとわかっていながら、そう問いかけずにはいられない。理不尽なことや、裏切りや、自分の力ではどうしようもないできごとに。たとえば、帰り道を確かめるようにしてなんども振り向きながら去ってゆく恋人に。その人にだけはわかってほしいのに、どうしてもわかろうとしてくれない人に。
なぜと問いかけ続けて、人生を識《し》る。
生きることは悲しいことだと気づかされる。
思いのままに生きられないのは、愚かさと罪を背負っているからだと、それが私という人間の業なのだと。この世は存在の流刑地だから。それは、どこで暮そうともけっして変わりはしないから。
なぜと問いかけ続けて、愛を識《し》る。
それでも生きているのは、愛されているからだと気づかされる。
愛されているということは、許されてあるということ。ときに愛を信じられなくなっても、それは自分の勁《つよ》さを試されているだけのこと。
この世と呼ばれる存在の流刑地で、もっとやさしくなれ、もっと強くなれと励まされている。
なぜという問いかけはとても切ない。
切ないのは、私が私でいるから。
切ないのは、私自身だから。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第38話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/