中国で暮していると、
「韓国人?」
とよく訊かれる。
どうやら、中国人は日本人と韓国人の区別がつかないようだ。中国には韓国人が大勢いるから、「自分たちとは違う東アジア人」と話をしたら、まず韓国人を思い浮かべるのだろう。
「違うよ。日本人だよ」
僕がそう答えると、まずいことを言ってしまったと後悔の色を浮かべる人もときどきいる。国を間違えるのは失礼だと思っているようだ。僕はこだわらないけど、気にする人もいるだろうし。
「ほら、韓国ドラマをけっこう放送しているでしょ。なんか、テレビに出ている俳優さんに似てるなって思ったから。男前も多いし」
気を遣う人はこんな風に言ってくれるのだけど、それってフォローになってへんやん。
もっとも、バックパッカーになって旅をしていた頃は、よく韓国人の旅人が「アニョ~」とかなんとか元気よく言いながら韓国語で僕に話しかけてきた。たいていの日本人バックパッカーはこんな経験をしているから、僕が特別韓国人に似ているというわけでもなさそうだ。韓国人の目から見れば、日本人は自分たちの同胞と同じ姿に見えるのだろうか。ともあれ、韓国人は自国の人間と日本人の区別がつかないようだ。それくらい似ているのだろう。
雲南省に住んでいる少数民族に間違えられたこともある。雲南省には漢民族を含めて二十六の民族が住んでいる。
十年ほど前、広州から雲南省の省都・昆明行きの列車に乗った時、雲南人の乗客が話しかけてきた。
僕がまったく中国語を聞き取れないので、話しかけてきたお姉さんは、僕が中国語を話せない少数民族だと思ったらしい。
「もしかしてヤオ族?」
彼女はそう訊いてくる。ほかの雲南人にも「あなたはヤオ族か?」と訊かれたことがあるので、どうやら僕の顔はヤオ族という少数民族に似ているらしい。ちなみに、ヤオ族は雲南省では山奥で田んぼを耕して暮している民族だ。
「ニホンジン」
僕は片言の中国語で答えた。
「ええっ? ほんとう!」
お姉さんは心が躍《おど》ってしまったようだ。
「中国語を話せる?」
「ハナセナイ」
「ほんとに日本人なんだ」
ほがらかに笑った彼女は勢いこんで中国語でいろいろ話しかけてきた。でも、僕は彼女がなにを言っているのかまったくわからない。ちんぷんかんぷんだ。せやから、話されへんねんてさっき言ったやん。
「ほんとうに中国語がわからないんだ」
ぽかんとした僕の顔を見て、彼女はしょんぼりしてしまった。あんまり落ち込んでいるものだから、ちょっとかわいそうだった。雲南人の喜怒哀楽の表現はけっこう素朴だ。うれしかったらすぐに笑うし、気落ちしたらすぐにしょんぼりしてしまう。僕はそんな雲南人が好きだ。
中国暮らしも長くなると、今度は日本人に中国人と間違えられるようになった。中国製のジーンズを穿いて、中国製のシャツを着て、地元の値段の安い理髪店で髪を切ってもらうと、中国人に見えるようだ。
僕が日本語で日本人に話しかけると、
「あ、ニイハオ」
と反射的に日本語訛りの中国語が返ってくることもあるし、
「びっくりしたあ。てっきり中国人かと思っていました」
と驚かれることもある。
最初はなんだかなあと思ったけど、今はもう慣れてしまった。
中国人から見れば、僕はやはり中国人には見えないらしい。理由は、雰囲気と仕草が中国人とは違うからだとか。
それぞれの国の人たちには固有の雰囲気や仕草がある。いくら外国で長い間暮らしてみても、それは抜けないようだ。日本ではわからないことだけど、僕の体と心には日本の文明や文化がたくさんつまっている。僕自身が日本文化の缶詰といってもいいのかもしれない。もちろん、日本人なら誰でもそうなのだけど、外国で暮らしてみればこんなことにふと気づかされる。
僕が日本人であるのは、たぶん偶然なんだろう。たまたま日本人として生まれただけのことだ。
それでも、日本人であることからは離れられない。日本人をやめることはできない。なるべく外国のいろんな習慣や文化を学んでみたいと思っているし、自分の殻を破ってみたいけど、僕は死ぬまで日本人であり続けるのだろう。当たり前のことのようだけど、思えばなんだか不思議な気もする。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第37話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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