世の中へ出れば、たえずいろんなことに折り合いをつけなくてはならない。
世間が欲望の総体だとすれば、人と人の欲望はいつもぶつかりあう。本格的に衝突する前に折り合いをつけなければ、とんでもないことになってしまう。取引先とも、上司とも、同僚とも折り合いをつけながら仕事をする。折り合いをつけることが仕事といってもいいかもしれない。別の言い方をすれば談合だ。人と交わる時も、角を立てないように折り合いをつけながら相手と話をする。折り合いをつけることが話をするということなのかもしれない。ごく一部の親しい人をのぞいて、ほんとうの気持ちは誰にも言えないから。
相手ばかりではなく、自分自身とも折り合いをつけなくてはならない。
理想の自分の姿があったとしても、それが100%叶うわけでもない。自分が英雄《ヒーロー》であるはずもない。だから、自分を取り巻く現実と自分自身とに折り合いをつけなくてやっていかなくてはならない。折り合いをつけたところで、なるべく自分のやりやすい道を模索する。
もしかしたら、いろんなことに自然と折り合いをつけることのできる人が生き方上手なのかもしれない。
ただ、どうしても折り合いをつけられないこともある。
相手に自分の世界に住んでほしいと言われた場合がそうだ。
それだけはどうしてもできない。相手はそれで満足できるのかもしれないし、幸せになれるのかもしれないけど、それでは自分が窒息してしまう。言い方を換えれば、相手の欲望に飲みこまれるということだ。自分の人生を自分自身で生きられなくなってしまう。
こうなれば、その人と袂を訣《わか》つよりほかにない。
――サヨナラだけが人生だ。
そうつぶやいて、相手の世界から去るよりほかに術はない。たとえそれが親や恋人であったとしても。
むろん、自分の世界に住んでほしいと望んだ人を批難する気持ちは毛頭ない。そう願わずにはいられないのは、独りでは生きていかれない人間の悲しい性なのだから。僕自身も、時に、相手にそう望んでしまうものだから。どうしても、求めてしまうものだから。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第55話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/