このところ、外国ではテロ事件が相次いでいました。
日本に住んでいて良かった・・・などと思っていた矢先に起きた大量殺人事件。
これは、テロではないんだけど・・・?
いや?似てる?
植松容疑者は、知的障がい者、とりわけ重度の障害を持つ方々に嫌悪感を持っていたようです。
「嫌悪感」という言葉を、「自分の価値観に相容れないという思い」と置き換えると、似てきて
しまうのです。
テロは、宗教なり体制なり、自分達が良しとする価値観と違う人達を、無差別的に排除する行為だと
自分は解釈しています。
自分たちの価値観に基づく社会にするために、それにそぐわない人たちを「不要」と見なし、
政治家、軍人、一般市民、老若男女全く無差別に排除する、殺戮する行為ということです。
すると、植松容疑者の脳内では、重度知的障がい者は、「生きる価値が無い人」という、
まさに価値観から外れた「不要な人たち」ということになってしまいます。
そして、この度の凶行は、それら「自分の価値観から外れた不要な人」を排除する行為であり、
殺傷された方の人数といい、テロと同じではないか、という重苦しい気分になってしまうのです。
世の中には、いろんな人がいる。
それが、この世というものなのに。
日本に住んでいて良かった・・・などと思っていた矢先に起きた大量殺人事件。
これは、テロではないんだけど・・・?
いや?似てる?
植松容疑者は、知的障がい者、とりわけ重度の障害を持つ方々に嫌悪感を持っていたようです。
「嫌悪感」という言葉を、「自分の価値観に相容れないという思い」と置き換えると、似てきて
しまうのです。
テロは、宗教なり体制なり、自分達が良しとする価値観と違う人達を、無差別的に排除する行為だと
自分は解釈しています。
自分たちの価値観に基づく社会にするために、それにそぐわない人たちを「不要」と見なし、
政治家、軍人、一般市民、老若男女全く無差別に排除する、殺戮する行為ということです。
すると、植松容疑者の脳内では、重度知的障がい者は、「生きる価値が無い人」という、
まさに価値観から外れた「不要な人たち」ということになってしまいます。
そして、この度の凶行は、それら「自分の価値観から外れた不要な人」を排除する行為であり、
殺傷された方の人数といい、テロと同じではないか、という重苦しい気分になってしまうのです。
世の中には、いろんな人がいる。
それが、この世というものなのに。