「兵役を拒否した日本人」を語るには、明石順三氏について話さなくてならず、氏を述べるには、「エホバの証人 」が何であるのかを知る必要があります。
別名「ワッチタワー」、「ものみの塔」とも称される「エボバの証人」という教団は、チャールズ・テイル・ラッセルが設立し、後継者のジョセフ・F・ラザフォードによって確立されたと知ることも大事です。
稲垣氏が詳しく述べていますが、「ねこ庭」では多少不正確になっても大胆に割愛し、主要部分だけを紹介します。私のような門外漢に一番分かりやすいのは、彼らは、イスラム教の中にいる「原理主義者」に似ている、という説明ではないのでしょうか。
イスラムの原理主義者は、経典の教えを厳格に解釈し、妥協せず実践する人々です。エホバの証人の指導者たちも、聖書を厳格に理解し、外れるものを排斥します。つまり彼らの言うことは、「正論」なのですが、正論というのは正論であるゆえに、実践すると周囲に波風を起こします。
ラッセル氏とラザフォード氏は、旧約・新約の聖書から、エホバが唯一の神であることを証言する言葉を集めます。そこでは万物の父なる神は、ただ一つであり、偶像崇拝が虚しいことも明示されています。イエスはあくまで一個の人間であり、エホバの代理執行者として、この世の終末の時に、その精神が復活されるに過ぎないと解釈します。
・しかるにキリスト教の聖職者たちは、神には、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位があるとし、
・これら三位の神は一なる神であり、同一、同位、同等の権威を有し、三位にして一体の神という。
・聖書では、偶像への礼拝は認められていないのに、キリストの十字架像や、マリア像が礼拝の対象となっている。
・これらはすべて、聖書の真理に反することだ。
と言うような主張です。
こうなりますとローマカトリック教会や、プロテスタント教会が反発するのも分かります。ラッセル氏がアメリカで、これを説き始めたのが、1870年 ( 明治3年 ) 頃と言われ、後継者のラサフォード氏が会長になり、教義を敷衍したのが1917年 ( 大正16年 ) 頃といいますから、千年以上の歴史と伝統を持つ既存の教会が黙っているはずがありません。
「エホバの証人」については、この位にとどめ、次に明石順三氏が、どのような経緯で教団の教えに触れ、帰依するようになったかです。
氏は明治22年滋賀県に生まれ、代々彦根藩の藩医を務めた家に生まれました。生家が裕福でなかったことと、生来独立心が旺盛だったことから、海外雄飛を目指しました。
渡航の便宜を得るためキリスト教系の会に入り、苦学しつつ働き、金を貯め、明治41年に渡米します。
苦労の中で独学し、大正3年に、現地にある邦字新聞社の記者となります。氏は権力に対して説を曲げず、社会批判をするイプセンに共鳴していました。この頃からワッチタワー ( エホバの証人 ) の教義に触れ、心を寄せるようになります。
本論を外れますが、当時の氏が「新聞記者の限界」について、書いた文があります。現在の記者にも、そのまま当てはまりそうな内容なので、紹介してみます。
・記者に、真に報道の自由が与えられるならば、喜んで事実を報道するであろうが、彼らは実際には、新聞社を支配する権力者によって掣肘を受け、その命令に服従させられ、事実を報道し得ないのが、実情である。
こういう事情もあってか、氏はロサンゼルスの新聞の記者をしたり、サンフランシスコの新聞に移ったりしています。
第一次世界大戦の最中でもあり、ワッチタワーの信者たちの中から、聖書の教えに従う兵役拒否者が続出しました。合衆国憲兵に逮捕・起訴されても、彼らは法廷闘争で戦いました。この間の事情を、稲垣氏が説明しています。
・明石順三が接したのは、主としてラザフォード氏によるワッチタワーの文献であった。
・約言すれば、それは現実の社会体制の悪、なかんずく帝国主義的な国家体制の悪を指摘し、そうした悪に、いかに教会制度がかかわっているのかを説いていた。
・第一次世界大戦後の国際連盟の実情や、米国資本主義の社会機構の矛盾を説きつつ、世界の終末やキリストの再臨という思想に、ジャーナリストとして生きていた順三は、十分に納得した。
・大正13年にロサンゼルスの新聞社を辞し、彼はワッチタワーの伝道者となり、全米各地の邦人にその思想を普及させた。
・その翌年に、彼の著作『神の立琴 』の日本語訳が、「ワッチタワー本部から出版された。
・彼はワッチタワー総本部の正式派遣により、日本に支部を作るため、帰国することとなったのである。
・20年ぶりに帰国した彼が、最初に住み着いたのは、神戸市外の一ノ谷にある、須磨の浦聖書講堂だった。
・つまり氏は、日本において正式に「エホバの証人」と認められた、第一番目の人物であり、開拓者でもあります。
・わずかだとしても、ワッチタワー本部から定期的に資金が送られ、氏はこの期待に十分報いる活動をします。
・この初期活動のメンバーの中に、本書の主人公である「兵役を拒否した日本人」、すなわち村本一生氏がいます。
やっと、主人公について述べるときが来ました。著者の説明を紹介します。
・兵役拒否は、積極的な、正面きっての抵抗である。」
・「それは軍隊内で、あるいは招集にあたって、逃げも隠れもせず、自己の信念に基づいて、軍務を一切拒否する意思を、軍そのものに突きつけることなのである。
・過酷な軍律の統制下にある、戦前の天皇制の軍隊内で、兵役拒否をするには、どんなに勇気がいったことか。軍隊生活を体験した人々、国民皆兵当時の日本を知る人々には、十二分に理解されることであろう。
明石氏も村本氏も、戦後は「エホバの証人」を離れ、世捨て人のように暮らしました。最初に述べたとおり、聖書の教えを守り、命がけで戦った氏たちが、どうして日本の教団から消し去られたのか。これを紹介するスペースがなくなりました。
「日本の闇」が「米国の闇」につながっていることを次回に語ります。単なるキリスト教の一会派の話ですが、注意深く考察しますと、同じような構図が浮かび上がってきます。
つまり「日本政治の闇」が「米国政治の闇」と、深く繋がっている構図です。
あと一回でまとめられるのか、自信はありませんが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々のために、頑張らなくてなりません。
今日も、厳しい寒さの日です。バードバスの水が凍り金槌で叩いても割れません。水浴びに来る鳥たちを思い、ヤカンに沸かした熱湯を注ぎ、それをまた金槌で割りました。
小鳥が火傷しないように、お湯が冷えるまで側にいます。残っている氷のせいで、5、6分もすれば、冷たい水に変わります。
人間のためには、安売りの灯油を車で買いに行きました。先ほど帰りましたので、部屋のストーブをつけ、一息入れて「ねこ庭」に向かっています。それでも足元が、しんしんと冷えます。
「こんな寒さなんて、モンゴルに比べれば何てことはない。」
こうして私は、次回にかかろうとしています。