朝が来て、とうとう昼になりました。ため息ばかりついていますと、時間だけが過ぎていきます。意を決して、コンデ氏の著作の紹介に戻ります。
・韓国の反李承晩的政治家たちは、李承晩の政府を、封建地主、警察官僚、カリフォルニアやハワイに居る、朝鮮人移民の手先、軍国主義の青年団、西洋かぶれの教育者や、富裕な実業家たちとの組み合わせと呼んだ。
・批評家たちに言わせれば、彼らの大部分は、40年間の日本の統治で手に入れた権益を、失うまいとしている朝鮮人たちである。
・彼らは日本一辺倒でないにしても、朝鮮を統一したり、改革したりができない現状維持者たちということだ。
氏はどうしてここまで日本を敵視するのか。何がそうさせるのか。もう一度氏の経歴を見たくなりました。第二次世界大戦中氏は、米軍の心理作戦局にいて対日宣伝戦に従事しています。
・明治39年にカナダで生まれ、のちアメリカへ移り、日本問題を研究。
・第二次世界大戦中は、米軍の心理作戦局に所属し、対日宣伝戦に従事。
・終戦と同時に、GHQの情報教育部映画課長となり、昭和21年に辞任
・ロイター特派員として活躍。
・翌22年に、無許可滞在を理由に、日本国外追放
・昭和49年、カナディアン・フォーレム・トロントの駐日特派員として再来日し、現在に至る
軍務に着く前の「日本研究」の時から、氏は敵対心を燃やしていたのでしょうか。マルクシズムを信奉する氏にとって、当時の日本は、敵視せずにおれない存在だったのでしょうか。
経歴からは分からないので、氏の叙述に戻ります。
・弾圧的な憲法、巨大な軍隊、アメリカの軍事援助とともに、李承晩が任命した閣僚は、彼の政府がたどる方向を暴露した。
・任命された人々は、ほとんど全部西洋風に教育され、英語を話し、故国に根を持たない、亡命者の寄せ集めであった。
・彼らは朝鮮人民を代表しない、法律家、将軍、警察官、もと王族の一員だった。農民も、労働者も、代表として選ばれなかった。
反米社会主義者である氏は、李承晩政権をこのように説明し、現状維持者たちの政権を作ったアメリカの政策を批判します。
・自由を擁護すると公言する一方で、アメリカ軍政府は、次々と禁止令を公布した。
・布告第19号は、新聞、雑誌、その他の出版物の、軍政府への登録を要求した。
・ラジオ放送や映画も、軍政府の統制下にあったし、舞台での上演もまた、その検閲を受けていた。郵便も含め、北朝鮮との連絡も、検閲されていた。
・政党はその目的や組織を報告するよう、強制されていたし、パレードやデモや集会は、すべて禁じられていた。
・政治活動は、日本人に仕込まれた朝鮮警察の監視下にあった。朝鮮警察は、軍政府の是認のもとに、スパイや情報提供者を放ち、思想統制の手練手管を駆使した。
・これらはすべて、左翼の自由をいっそう制限するものだった。
ところがその同じ頃、日本ではマッカーサー元帥が逆のことをしていました。日本政府が厳しく取り締まり、刑務所に収容していた共産党の幹部や活動家たちを、ことごとく釈放しました。
「連合軍は、解放軍である。」と、共産党の最高幹部だった徳田球一氏が、マッカーサー元帥に感謝し、この時以来、日本では共産党の動きが公然化し、反政府運動が復活します。
元帥は頑固な反共主義者だったのに、なぜこのようなことをしたのか。それは不思議でも何でもなく、簡単な理由でした。
日本軍を消滅させるためには、なんでも利用する。目的のためなら手段は選ばないと、元帥の日本軍への憎悪はフィリッピンを追われた時以来、消えることのない屈辱感から来ています。その最たる手段が、東京裁判でした。
しかしこの話は、止めましよう。別の怒りがこみ上げますので、氏の本に戻ります。
李承晩政権を誕生させるため選挙を実施すると、アメリカはソ連を無視して政策を進めます。選挙の数日前、李承晩の政敵である金奎植と金九が平壌から戻り、ソウルで記者会見をしました。この時の様子を、コンデ氏が語っています、
・彼らは二人とも、北朝鮮における経済発展に、強く印象づけられていた。
・工場は活気に満ち満ちており、目につくロシア人の姿はなかった。
・彼らは、何事にも干渉する南のアメリカ人とは対照的に、遠慮がちに作業しているロシア人たちを称賛した。
やはり氏は頑迷なマルキストで、ソ連の賛美者でした。
・そして二人は、アメリカの占領が、南朝鮮の腐敗と、広範な経済的混乱をもたらしたと攻撃した。
・アメリカ人は不正な人間を信頼し、日本占領下ですでに腐敗していた朝鮮人たちに、責任ある地位を与えたからだと語った。
けれども二人の話はここまでで、金九は選挙の直前に暗殺されます。米軍なのか、李承晩の手勢だったのか不明のままです。残る金奎植は北朝鮮に逃れ、現地で病死したとも、銃殺刑になったとも言われています。
李承晩氏が政権を樹立するまで、暗殺、投獄、拷問、暴行を受けた人間が多数いましたが、報道はされませんでした。
1947 ( 昭和22 )年に、米国の世界戦略が大きく変わります。
ルーズベルトの後を継いだトルーマンが、施政方針を打ち出したました。世に言う「トルーマン・ドクトリン」です。別途調べた内容を紹介します。
〈 トルーマンドクトリン 〉
・共産主義封じ込め政策である。
・具体的には共産主義に抵抗している、ギリシャとトルコへの支援だった。
・トルーマンは、両国を援助しなければ、ヨーロッパ各国で、共産主義のドミノ現象が起きるとの警告
・朝鮮問題もこうした観点から捉え、ソ連との妥協を明確に拒否
「トルーマン・ドクトリン」には、次の大きな二つの意味がありました。
1. モンロー宣言以来の「孤立主義」との決別
2. パックス・ブリタニカの終焉と、パックス・アメリカーナの到来
ギリシャの内戦に介入していたのはイギリスでしたが、財政的負担の重さに耐えきれなくなっていました。英領インド、パキスタン、バングラディシュを手放すなど、斜陽化が進むイギリスに代わり、アメリカが積極的にかかわるという宣言でもありました。
マッカーサーの日本統治も、大きく変わります。
トルーマンによって日本と韓国は、アジアにおける、共産主義勢力への砦と位置づけられます。共産主義者が再び敵となり、日本国内で「レツドパージ」が始まります。
財閥の解体もうやむやになり、軍の再建も図られます。警察予備隊、保安隊、そして自衛隊へと目まぐるしく変動した背景が確認できます。朝鮮も日本もアメリカの世界戦略に組み込まれ、今もその状況が続いています。
「日本は、独立した国である。」
「成熟した民主主義国家である」と言うのは、現実の一面しか見ていない意見だと理解しなくてなりません。
コンデ氏の偏見と戯言ばかりですから、これ以上の紹介は人生の無駄になります。保守自民党の政治家と、保守論客と言われる人々の不甲斐なさも見えてきました。市井の年金生活老人にすぎない自分が、「敗戦後の日本」の異常さを無念に思い、日本を取り戻したいと頑張っているのに、彼らは何をしているのかと諫言せずにおれなくなります。
自死した江藤淳氏や西部氏は、「ねこ庭」の私より遥かに頭脳明晰で、人的ネットワークを持つ著名人なのに、なぜ自死を選んだのか。
愛国心のある保守人なら、なぜ吉田松陰のように、私塾を作ってでも後進を育てる気概がなかったのか。歴史の曲がり角にある日本に生きていながら、黙り込んでいる保守の人々は江藤氏や西部氏と同じで、国の役に立ちません。
ここで「ねこ庭」は、もう一度、国民の選良である自民党の議員諸氏へ提言します。
1. 国会議員の二重国籍禁止法を、制定すること。
議員の二重国籍を禁止し、該当者には帰化を促し、帰化しない者は国外退去とする。
2. NHKに関する特別法を制定し、役員の二重国籍を禁止する。
該当者には帰化を促し、帰化しない者は退職させる。